冬の寒い朝。 黒鵺がリビングのドアを開けると、肌寒い風がスゥッと頬に触れる。 「‥‥?」 ふと部屋を覗くと明かりは無く──カーテンだけが、静かにはためいている。 もう起きているのか?と、キッチンへ向かうが、真っ暗で誰も居ない。 「黒鵺、何をしている。探し物か?」 「あ?いや──」 適当に言葉を返し、今度はの部屋を見に行こうとする黒鵺に、蔵馬は怪訝な顔を浮かべる。 「あの女なら仕事に行ったぞ。と一緒にな」 「仕事?」 「あぁ。“日勤”‥‥というやつらしい」 すれ違ったと、黒鵺はため息をつき、何もこんなに朝早くから行かなくたって‥‥と、ぼやく。 すると蔵馬は咳払いをし、スッと壁掛け時計を指差した。 時計の針は、『午前11時』を指していた。 「ちっ、‥‥ったくよぉ。起こしてくれたっていいじゃね〜か。気が利かねぇなぁ」 黒鵺は椅子に腰掛け足を組み、頬杖をついて悪態をつく。 しばらくボーっとしていたが──。 「おい蔵馬。さっきからなに食ってるんだ?」 蔵馬が手にしているもの‥‥その茶色い物体とレースのリボンが、彼にはどうにも似つかわしくなくて、黒鵺は身を乗り出して尋ねる。 「お前がそんなもの、似合わねー!柄じゃねえだろう。一体どこからくすねてきたんだ?」 一瞬ムッとする蔵馬。しかし、すぐに目をチョコにやり、嬉しそうに答えた。 「これは、からもらったものだ」 「あの女から‥‥?──何かの礼か?」 蔵馬は彼の言葉に顰めたが、『なるほど』という顔をして──。 「今日は、女性が愛する男性に贈り物をする日らしい」 黒鵺の顔が途端に強張る。 「じゃ、じゃぁこれって‥‥」 「だからにもらったといっている‥‥。不思議なものだな。今まで山のように報酬や財宝を手に入れたが、これに勝るものは無い。お前もそう思わないか?黒鵺」 蔵馬は、が添えたメッセージカードを見つめながら、笑みを浮かべる。 黒鵺は思わず後ずさる。「そうは思わないか」と言われても、返答に困る。 (バカな‥‥俺はもらってないぞ!) 「どうした?黒鵺」 蔵馬は、これ見よがしにチョコレートをかじり、メッセージカードを、わざと黒鵺の目線に入るように翳しひらつかせる。 「くっ‥‥」 「お前だって、あの女から──」 「うっ、うるせえよ!」 ついカッとなった。 「オ‥‥オレだって、そんな物の一つ二つ、貰ってるさ!‥‥‥‥出かけてくる!」 黒鵺はそう叫ぶなり、玄関のドアを乱暴に開け放ち、何処かへ行ってしまった。 蔵馬はクスッと笑い、肩をすぼめて呟く。 「フッ‥‥相変わらず分かりやすいやつだ」 気がつけば黒鵺は、の働く職場の前にいた。 職員専用入り口から進入し──を見つけた! 今にも飛び出して会いたい衝動に駆られるも、拳を握り締め、ぐっと抑える。 (‥‥) 慌しく走り回るが見える。部屋を行ったり来たり‥‥階段を駆け上がって下っての繰り返し。 家での穏やかで明るい雰囲気とは違い、まるで別人のようだった。 そんな彼女を見ていると、何て自分は小さいのだろう──。 チョコがどうのこうのと言っているのが、みみっちく感じ、恥ずかしくも思う。 (何をやってるんだ俺は!に会ってどうする?チョコをくれとでも言うつもりか。最低だ──俺は!) 踵を返して帰ろうとした時、「黒鵺!」と、背後から呼び止められた。 振り返り──「!」と、思わず叫ぶ。 こちらに駆けてくるに、黒鵺は立ち止まる。嬉しくて、思わず笑みがこぼれる。 「どうしたの黒鵺?」 「え‥‥」 「病院に来るなんて‥‥怪我でもしたの?」 「いや、違う」 「そう‥‥じゃぁ、貴方の仲間が怪我をしたの?」 「‥‥‥‥」 黒鵺は苦笑いを浮かべ、そうではない、そうではないと、の質問攻めに、淡々と答えていた。 『ただ、会いたかったから』などとは言えず、必死に『病院に来た理由』を探し出す。 ポリポリと頬を指先で掻き、目線をから外している仕草は、いかにも『考え中』──。 (フフッ、全く‥‥分かりやすい人なんだから) 「は思わず吹き出し、まだ困り続けている黒鵺の手を引いて、会議室へと連れて行く。 「仕事が終わるまで、ここで待っててくれる?」 そこは四畳程の個室に、長椅子が一つ。サッパリとした部屋。防音になっており、病院内の騒々しさが嘘のようであった。 「忙しいなら、俺は帰ってもいいぞ。お前を困らせに来たわけじゃねぇし‥‥」 「大丈夫よ、心配しないで。ゆっくりしてってよ」 は、長椅子に強引に黒鵺を座らせる。 「折角来てくれたんだもの。ちょうど話したいこともあるし──」 意味深げな言葉に黒鵺は、「ちょうど?おい、なんだよそれって‥‥」と腰を浮かせるが、は構わず「ハイハイゆっくりしてって」と、黒鵺をグイグイと座らせる。 そして‥‥「とにかく──待ってて!」と、言い残し、行ってしまった。 黒鵺は顔を顰めて首を傾げたが、強引に突っ走るの行動には慣れているため、それ以上の追求はしなかった。 長椅子の背にもたれ、部屋を見渡す。 白くて狭い‥‥殺風景な部屋。長椅子以外には何も無い──ただの箱部屋のように思えた。 しかし、同じ空間にが居る──そう思うだけで、何故だかとても心が安らぐ。 黒鵺はそのまま寝転び、しばしの眠りに付いた。 ピリリリ──!ピリリリリ──! 「‥‥う〜ん」 ピリリリ──!ピリリリリ──! 腰に提げていた無線機を取り出し、スイッチをONに──した途端 「黒鵺さん!!」 寝起き状態の耳に、スピーカーが壊れんばかりの絶叫が貫いた。 不意打ちの大音量に、思わず無線機を耳元から離し、黒鵺はガバッと飛び起きる。 (うるせぇ‥‥!) ようやく耳が慣れた頃、再び無線機を耳元へ‥‥。 誰かがずっと喋っている。 「黒鵺さん!黒鵺さん!‥‥‥‥いるの?聞こえてます?」 (この声‥‥の連れの女か?) 少しがっかりしながらも黒鵺は、なんて答えればいいのかわからず、そのまま無線機に耳を宛がっていた。 「は、まだ病院にいますか?」 の名が出たため、黒鵺は、部屋のドアをそぉっと開けて覗いた。別に普通に開ければいいだけなのに‥‥。 ドアを開けると、数時間前の慌しさが嘘のように辺りは静まり返っていた。 勿論人は居たが、あの時、あの場で見た者は、誰一人も居なかった。────も。 「は‥‥‥‥‥‥ここには居ない」 静かに答えると、無線機の向こうで「そう‥‥なの」と、の沈んだ声が聞こえてきた。 嫌な予感がして、黒鵺は「がどうした?」と問う。 すると‥‥。 「、まだ家に帰ってないんです。病院に電話したら、「もう仕事を終えて帰ってますよ」って言われまして‥‥。夜食を病院で食べるなら、連絡して欲しいのだけれど、それもありませんし‥‥」 黒鵺は、血の気が引いていくのを感じた。眠気も一気に覚め、冷や汗が噴き出す。 「が‥‥?」 「ええ。夜食を作ってもいいですけど、もし病院で食べるなら、無駄になっ──」 そこから先のの話は、黒鵺の耳には入らなかった。 (──まさか!) 気づいたときには、黒鵺は部屋を飛び出していた。廊下を走り抜け、階段を駆け下りる。 黒鵺はこの時、人間という生き物は、ここまで“おめでたい生き物”なのか‥‥と思った。 が居ない理由‥‥。帰らない理由。“最悪の結末”をどうして考えないのか。 魔界がどのような世界か知ったうえで、この世界に留まっているのか──。知っていての発言とは到底思えないほど、の言葉は楽観的であった。 (なにが『夜食』だ。あの女──!) ここは魔界だ。もし妖怪に‥‥。その可能性を、少しでも考えたりはしないのか。 足がもつれて階段を踏み外し、激しく転げ落ちる。 「だ、大丈夫ですか!?」 近くにいた職員が黒鵺に話しかける。しかし黒鵺はその者を突き飛ばし、構わず階段を駆け下りる。 (早く見つけないと‥‥!出口は何処だ!?) 『窓から飛び降りる』。そんな簡単な事さえ忘れてしまうぐらい、明らかに黒鵺は動揺していた。 玄関を出たとき──そこは夜の闇。 目を閉じ、神経を研ぎ澄ます。しかし──ここは病院。沢山の血の匂いが混ざり合って鼻が利かない。 頼りの気配も、薬品の匂いが邪魔をし、かきけされてしまっている。 (くそっ!どっちに‥‥) 心臓が早鐘のように高鳴る。モタモタしている暇は無い。早く── 一刻も早く────! 四方八方に目を向け、気配の方向を必死に探す。そんな中、ふと屋上にも目をやった。 すると、微かだが、ぼんやりと人影らしき物体が見えた。 眼を細めて見上げる黒鵺。 貯水槽をバックに、小さく佇む白い影‥‥あれは────! 〜屋上〜 黒鵺は、ドアをゆっくりと開けた。 冷たい風が一気に吹き付ける。 目線の先に佇む白い影は、やはり人間のようだった。気配を探るが、これといった殺気は感じない。 「‥‥なのか?」 念のため、後ろ手に武器を隠し持ち、黒鵺は静かにその影に尋ねた。 人影は、ゆっくりと振り向く。────だった。 ニッコリと微笑むが、そこにいた。 (無事だったか‥‥) 黒鵺から、一気に全身の力が抜けていく。緊張が一気にほぐれ、に駆け寄るも、よろよろとして地に足が着かない。 「何故ここに居る?あの女から、お前が帰ってこないと無線機に通信があった」 「女って‥‥。え?のこと?あれ?──え?」 噛み合わない台詞。黒鵺は訝しげに眉をしかめる。 「私、仕事が終わってから、蔵馬さんに電話したわ。黒鵺と帰るからによろしく伝えてくださいって。‥‥蔵馬さん、伝え忘れたのかしら?」 その言葉を聞いて、黒鵺は脱力して大きくため息をつく。 (くそっ、やられた!) 蔵馬は伝言を伝え忘れたのではない。『わざと、伝えなかった』。それに気づいた。 それは、蔵馬らしからぬ行為で‥‥。 黒鵺はチッと、小さく舌打ちをしながら、に向き直る。 「おい、危ねぇからせめて建物の中にいろよな。なんでこんな所にいるんだ」 「んー。なんとなく」 は手すりを背にしてもたれ、星空を眺める。 「だって‥‥一人で帰るのもねぇ。折角黒鵺は来てるんだし‥‥。どうせなら、一緒に帰りたいじゃない?」 と、顔だけをこちらに向ける。 屋上のライトをバックに、の笑顔と、白い吐息が、とても幻想的なものに思えてならなかった。 「お、俺と‥‥?」 「そうよ。貴方と、一緒にね」 熱いものが込み上げて来る──。 この時間と、その一言が、永遠のようにも思えてくる。 「じゃぁ帰るか」 黒鵺がにそっと手を差し出すと、は照れくさそうにその手を取った。 てっきりは一旦病院内に戻るのだろうと、ドアの方へと目をやるが、黒鵺は──おもむろにを抱いて、手すりに飛び乗った。 「ちょっと!‥‥何するの!?」 チラリと下を見る。底なしのような深い闇で、地面が見えない。 「きゃぁ!」 あまりの怖さに、ギュッと黒鵺の腕を掴んだ。 黒鵺は足を踏ん張り、一瞬体制を低くして────飛び降りた。 夜の帰り道。 いつもだったら、独りでは怖くて通れない道だが、今夜は黒鵺が一緒なので、の足もいつになく軽やかである。 しばらく歩いた後、はふと足を止め、立ち止まる。 「どうした、?」 急に止まったに、黒鵺が心配そうに声をかける。 「黒鵺。今日はごめんね。迷惑かけちゃって」 「もう気にしていねぇよ。さ、帰ろうぜ」 しかしは動かず、ため息をつき、星空を眺めている。 「うん‥‥」 「ったく、しけたツラするなよ。お前は無事だったんだ。それでいいさ」 「違うの。そうじゃないのよ‥‥」 は、黒鵺の目を見つめる。 「黒鵺を引き止めたのはね、一緒に帰りたいってだけじゃかったのよ」 その言葉に、黒鵺は思い出した。あの時の意味深げなの言葉、『ちょうど──』というものだ。 「実はね‥‥。これ、渡すつもりだったの」 バッグから、一つの包みを取り出した。 「これって‥‥」 「チョコレートよ」 が照れながら黒鵺に渡す。 「今日、最初に会った時点で渡すべきだったんだけど‥‥ちょっとビックリさせたいって気持ちもあって。もう夜になっちゃって、もう今日は終わっちゃったけど、──私の気持ちだからさ、受け取ってよ」 黒鵺の手をそっと取り、小さな包みを手に握らせる。 黒鵺は感慨を口に出せず、「ありがとう」の一言も言えずにいた。 その代わり、柄にも無く、目頭に涙が滲んでくるのが分かる。 (本当だな蔵馬‥‥。どんな報酬や財宝より、嬉しいものだな) さて、家では、蔵馬が無線機の受信をスピーカー状態にしながら、二人の会話を盗み聞きしていた。 黒鵺は、無線機のスイッチを切っていない。つまり────二人の会話は筒抜けなのである。 あの後、蔵馬から全てを説明されたは、「蔵馬ってば趣味悪〜い。ていうか、最低ー」と呆れた。 ムッとしてキッチンへと向かい、食事の支度を始める。しかし‥‥。 蔵馬が無線機のスピーカーの音量を下げると、は耳だけをこちらに向け、必死に聞こうとしている。 バチッと目が合うと、はふいっと目を逸らす。 耳まで真っ赤になるがおかしくて、蔵馬は腹を抱えて笑ってしまった。 蔵馬は、意地悪そうに無線機のスイッチを切って、静かにコーヒーを口に運ぶ。 (ふっ、どいつもこいつも──。分かりやすいやつだ)
の一日遅れのバレンタインデー。因みに‥‥義理チョコです(爆)。そういう“イベント”だからチョコを渡したヒロインと、それを知らず、純粋に“愛”と受け取る蔵馬と黒鵺との隔たりです‥‥。
すいません。『夢』をぶっ壊した短編になってしまいました。 しかし、本編をお読みいただいている方なら、ヒロインの“疎さ”について、お分かりになるかと思われますので、お許しください。 |