『この大型で猛烈な台風の中心気圧は910hpa。風速は70m/h。最大瞬間風速は──』 まもなく、首くくり島に超巨大な台風がやってくると聞き、はどうも落ち着かず、窓の外を眺めていた。 時折ブワッと風が吹いて窓ガラスを叩けば、咄嗟に肩をすくめるが、それでもわざと窓を開けてサンを握りしめる。 十数m先では、蔵馬も窓の外を眺めながら、轟轟と音を立てて激しくしなる大木に、不思議そうに顔を顰めていた。 にとって死角となる位置に立ちながら、蔵馬はの様子を観察していた。 必死にサンにしがみ付き風圧と戦っているはどこか楽しげで、どことなく顔もほころんでいた。全くもって理解不能である。 (何をやっているんだアイツは) いつがサンを離して壁に叩きつけられやしないかと、蔵馬は気が気でなく、やたらとたたらを踏んだ。 その時、とふと目が合ってしまった。自分の行動が恥ずかしいのだろうか‥‥。は顔を真っ赤にしながら窓を閉めた。 「おいおい、なんだこりゃ。今日は朝っぱらからすっげぇ風だなぁ〜。さらに酷くなってんじゃねぇか!」 試合の観戦を終えた陣と酎がやってきて、の隣で、外を眺めながら声を挙げる。 「でけぇ木がしなってやがるぜ。尋常じゃねぇぞこれ」 「すげ〜。まるで風が生きてるみたいだべ」 妖怪は、人間界で放送されているニュースを観たりすることはないのだろうか? 各階のサロンや大食堂で、朝からひっきりなしに大々的に報じられているのだけれど。 「一体、これは何なんだ?」 「『台風』ですよ」 ボサボサになった髪を整えながら答えるに、陣と酎は「台風?」と聞き返しながら振り向いた。 奥では、蔵馬が目線だけをに向けている。 「フフッ、これは『台風』といいましてね、人間界ではよくある自然現象なんです。明日になれば天気は回復しますから、ご心配なさらなくても大丈夫ですよ」 バスガイドさながらにが説明すると、陣と酎はほぉ〜という反応を見せながらも、「台風ってなんだべ?」と陣はに問う。 「陣は風使いですから細かい説明は省きますけど‥‥要するに、巨大な風が渦をまいてこちらに向かってきてるんです」 「どうして、こっちへ向かって来るんだべ?」 「‥‥さぁ?」 「中心が見えねぇだ。でっけぇんだべなぁ〜。でも──ヘヘン。俺の修羅旋風拳の方が凄いっつ〜もんだべ!」 陣が、カラカラと笑って胸を張った。 「おーい。だったら陣よ、お前ちょっくら行って『台風』ってやつの向きを変えてきてくれや」 酎が空を指すと、陣は「よっしゃ!」と腕をまくって窓から出ていく素振りを見せ、は大慌てで制止した。 「無理です。渦はとてつもなく大きくて強いんですから。いくら陣でも飛ばされちゃいますよ」 「へへっ俺は風使いだから平気だべ。その『台風』ってやつをやっつけてやるだ!」 「無理ですって。なんていうか、そもそも『台風』っていうのは、つまり‥‥。低気圧の渦っていうか、風の集合体っていうか‥‥。生き物ではなくて、ただ単に意志もなく回っているっていうか‥‥。右回り?左回り?あれ、どっちだっけ。えぇと、時計の針と反対方向だから‥‥」 「な、何を言ってるんだ姉ちゃんは」 「ちょっと変だべな」 仮にもこの世界の住人であるのに、なんとも酷い説明である。 酎と陣は呆れてどこかへ行ってしまい、の説明を側で聞いていた蔵馬も、まるで軽蔑するかのように見ていた。 「まったく‥‥。どうして医者の私に聞くのよ。そういうことはインフォメーションで聞きなさいってね」 バン──! 窓ガラスに打ち付ける風の音。地面を激しく転がってゆくバケツを、蔵馬とは共に目で追った。 2人は、人の出入りが多い日中は、暗黙の了解で“他人”を装っている。 ただ、このように顔を見合わせれば、ほんの少しだけなら‥‥笑みを投げかけても、いいと思っている。 が蔵馬に向かって笑みを浮かべた途端──突如蔵馬の眼が険しくなり、は口を噤んだ。どうやら見慣れぬ妖怪がこちらに近づいてきているらしい。 蔵馬が、後ろ手に何かを構える仕草をして、鋭い瞳で1点を凝視している。その妖怪は、どうやらの背後から向かってきているらしい。 が振り向くと、身の丈3mぐらいはあるであろう少し強面でガタイのいい‥‥獣のような妖怪が、ずぶ濡れで立ち尽くしていた。 一瞬ビクつき仰け反ったが、そんな彼の右腕には腕章が着けられていた。 「お前‥‥医療スタッフか?」 の右腕に着けている腕章を確認しながら、ガタイのいい妖怪が尋ねる。 「え‥‥は、はい。そうですが」 彼に失礼とは思いつつ‥‥蔵馬の方へ後ずさりをしながらが答える。 「この後の予定はあるか?ちょいと頼まれごとをしてくれないか?」 「予定?特にはないですから‥‥構いませんが‥‥お急ぎですか?」 「あぁ、これから大至急本土に行ってほしいんだ」 「え?あの、これからって──。今からですか?」 「ああ、勿論」 が外を眺めていると、大男は、取りあえず熱い茶を飲ませてくれと言って、給湯室に駆け込んでいった。 異様な雰囲気に、さすがの蔵馬もに近づき話しかけてきた。 「誰だ、あいつは?」 「怪しい方ではないわ。運営スタッフの方よ。右腕に腕章を着けていらっしゃったでしょう?私みたいに」 「本当か?」 「なに。その“本当”か──って」 「偽造した腕章かもしれん。もしくは、スタッフを殺して手に入れたという可能性も捨てきれないがな」 「あのねぇ‥‥」 は苦笑いを浮かべながら、全てを疑ってかかる蔵馬を窘めた。 しばらくして、大男が給湯室から出てきて、1枚のカルテを差し出した。 「今、医務室に運ばれた人間だが、島の設備では治療が難しいらしくてな、本土に行かにゃならんのだ。患者が人間だから、付き添いも人間がいいと言われてしまってなぁ」 「そうですか‥‥。しかし、こんな台風が向かっているこの時にフェリーを出すなんて、いくらなんでも危険すぎますよ!」 「だが、このまま放っておいたら、助からんのだ。万一のために護衛もつくから‥‥頼まれてくれないか?」 男は顔の前で合掌し、ペコペコと頭を下げた。 よっぽどの急患なのだろうか──。 「‥‥わかりました。行きますわ」 「あぁ助かった!だったら早速行ってくれ。フェリーの運航が停止になっては手遅れになる」 「船が浸水しちゃったら連絡しますから、すぐに助けてくださいね」 「わかった分かった。その時は、無線で知らせてくれ。ま、船が転覆しちまったら終わりだけどな〜」 「や‥‥や〜だ〜。縁起でもない事を言わないでくださいよ。その時は照明弾でも挙げますわ。ま、船が水没しちゃったら終わりですけど」 「ガハハー!じゃぁ、ちょっくら貯蔵庫に行って荷物を揃えてくれや。早い方がいい。あ〜でも取りあえず書類を渡すから、先に事務室へ来てくれや」 大爆笑しながら去っていくと大男の背中を、蔵馬は呆気にとられて眺めているしかできなかった。 ──貯蔵庫── がレインコートや防水無線らをバッグに詰めてバタバタと準備していると、貯蔵庫のドアが閉まる音がして振り返った。 蔵馬が、鋭い目つきでこちらを睨んでいる。彼が何を言いたいのかすぐわかった。 「やっぱりね‥‥来ると思ったわ。言いたいことがあるなら、言ってくれていいのよ」 手を止めようとしないの様子を、蔵馬は何も言わずに眺めている。 は、荷物を台車に乗せると、ガラガラと入口まで押していく。 「ごめん蔵馬。そこ、開けてくれない?荷物を外に出したいの」 蔵馬は、入り口のドアに凭れかかったままでどこうとせず、ドアも開けてやることもなく、ただを見下ろしている。 暫くの沈黙が続き、蔵馬が口を開きかけた時‥‥は蔵馬の言葉を遮るように言葉を発した。 「止めても無駄よ」 「お前が行く必要はない」 「人間の医者を付けてくれって言われているのよ。仕方ないわ」 「お前の連れの女に行かせればいい。あの小娘も人間だろう」 「は今、夜勤で働いてるから抜けられないわ。今、動ける人間の医者は私だけなのよ。それに‥‥患者の身に何か起こっても対処できるのは同じ人間の私だけ。仕方ないわ」 「お前はあの男の戯言を聞き入れるつもりなのか?お前が危機に晒されるのをわかっていながら笑っていたではないか」 船が転覆したら──。 「戯言じゃないわ。彼は私の上司で、あれは正当な命令よ。それにあの時の沈没や転覆の話は『冗談』よ。分かるでしょう?」 「だが、あの男はお前だけを危険な場所に行かせて、自分は同行しないそうだ」 「そりゃそうよ。あの人は上司で私は部下なんだから。関係性から言って、こういうときは部下が行くのは当たり前よ。仕方ないじゃない」 二言目には『仕方がない』と言い続けるに、蔵馬はその都度「死にたいのか?」と尋ねる。 「あの男の言葉には何か裏がある。行くのはやめたほうがいい」 蔵馬は、妖怪特有の察知能力か、はたまた盗賊を統率する“頭”としての勘か、その男に異様な不信感を抱いていた。 「魔界で生きている俺には、この人間界の事はよく知らんが‥‥とにかく行くのはよせ。お前はこのような状況で、わざわざ危険に身を晒したいと思っているのか?」 「そんなこと言ったって──」 「俺を信用しろ。とにかく危険だ。そもそも、この嵐の中を‥‥」 「だって、上司の命令なんだから仕方な‥‥」 「俺がお前に行くなと言っているんだ!」 心配してくれているのはありがたいと思っている。しかし──。 は無線機を手にして、蔵馬に向かって一喝する。 「どきなさい」 「‥‥‥‥何?」 の言葉が信じられず、蔵馬は思わず問い返したが、は再び同じ言葉を吐く。 「そこをどきなさい」と──。 「なぜ‥‥だ」 「聞こえませんでしたか?何度でも言います。そこをどきなさい。──いますぐここから出ていきなさい!」 「っ──!」 蔵馬が、苦悶の表情を浮かべて唇を噛みしめる。そこにいたのは、蔵馬が愛しているではなく‥‥暗黒武術会として働く『医者』であった。 (どうする‥‥。を行かせるか、それともこのまま捕えてしまうか) 蔵馬が迷っていると、「どうしました?」と、守衛が貯蔵庫のドアを外側からノックしたうえで開けた。 「ん?なんだお前は‥‥。あっ、失礼しました。さんもいましたか」 の腕に付いている腕章を見るなり、態度を変えて遜る守衛に蔵馬は舌打ちした。 「あ、ごめんなさい。フェリーの時間ですよね」 「ええ。あと30分ほどで出港するそうですよ。でも‥‥こんな大荒れなのに本当に行くつもりなんですか?」 「仕方ありませんわ。仕事ですもの」 「そうですか。ごくろうさまです。ところで、この方は一体誰ですか?スタッフの方ではなさそうですね」 守衛が蔵馬をチラリと目をやる。は蔵馬と目を合わせることもせず、擦れ違いざまに冷たく「知りません」と呟いた。 蔵馬は‥‥握った拳に力をこめる。 の手を引き寄せて、「行くな」と引き留めたい衝動に駆られる。しかし、観客とスタッフの関係を通しているために、それができない。 今すぐにでも、目の前の守衛を殺してやりたかった。 しかし、今の蔵馬にできることは、湧き上がる怒りを自身の拳に向けることだけ‥‥。 守衛らは蔵馬を外へ追いやると、台車を持ちながらの後をついていく。 蔵馬は、の後姿を悔しそうに眺めながら、壁に拳を打ち付けた。拳から滴る血を拭うこともせずに、蔵馬はしばらくその場から動けずにいた。 (下等な妖怪どもが──!) にあのような仕打ちを受けてもなお、蔵馬はに恨みや怒りなどを感情を持つことが出来ずにいる。 それはそれで情けない話だが、霊界に仕えているの事情もわからなくはない──と思える。 むしろ、に取り入って近づき、心を許させた妖怪らに腹が立って仕方がない。 蔵馬は、公衆の面前ではの後姿をただ見つめることしかできないのに‥‥。言葉をかけることも、笑みをかけることさえも許されないというのに‥‥。 『会場では、スタッフと観客との関係を徹底しよう』 他人行儀は嫌だと抗うを説得までして強引に約束させた取り決めだが、その取り決めが、蔵馬にとってこんなに辛いものだとは夢にも思わなかった。 前方からやってくるを無視して擦れ違う時は、胸が張り裂けそうになる。 まして、男と楽しげに話しているとすれ違う時は‥‥‥‥。 だが、その決め事を今更破棄することは出来ない。破棄するつもりもない。 既に蔵馬は、『あの妖狐蔵馬』に似ていると一部で噂が挙がっている。だがブローチを付けているが為に、最下級妖怪としてここに立てており、今現在は“他人の空似”として結論付けられている。 この会場では、蔵馬の正体を明かそうと目論む妖怪も現れたりしたが、暴かれる前に全て蔵馬と黒鵺が始末しているので、今のところは大丈夫だ。 は勿論、霊界も知らない事実である。 しかし、いつまでもそれで済むとは思っていない。いつかは──。 蔵馬は、と一緒にこの会場を歩き回るわけにはいかない。 蔵馬を殺すために用いる手っ取り早い方法は、を盾にして蔵馬をおびき出すこと。 を守るには、それしか方法はないと自分に言い聞かせてはいる。しかし‥‥。苦しい。果たして他に方法が無かったのか──? 黒鵺は既に取り決めを半ば放棄して、と一緒に会場を堂々と歩いている。 その光景を見て、愚かだと蔑む半面、どこか羨んでいる自分もいる。 しかし蔵馬は、に会っても「あの取り決めはなしにしよう」の一言はどうしても口にできない。 言おうとすれば、脳裏にが盾にされる光景が目に浮かぶからだ。万一の光景だが、ありえない話ではない。 自分から言い出した取り決め‥‥。を責めるつもりはない。ないが‥‥。なんだか無性に腹が立つ。 腹の底から、立ち昇ってくる怒りを抑えることができない。自分自身、何に腹が立っているのかわからずにいる。 が男どもの名前を口にするたびに、わけもなく苛立ち、心の奥底から、煮えたぎるような“何か”があふれ出してくる。 この気持ちは何なのか‥‥。俺は一体、何に腹を立てているのだろう──。 壁に凭れたまま、腰を下ろし、項垂れる。静かな地下の廊下にエレベーターのモーター音だけが響いていた。 (俺は、どうしたら──?) 額に手を宛がいながら、なんとか冷静になろうと幾度も深呼吸を試みた。 天井を見上げると、パカパカと蛍光灯が点滅しており──なんとなくその光を見つめていた。 そのまま、10分ぐらい過ぎた頃だろうか‥‥。全館に向けての放送がスピーカーから流れ、蔵馬は煩そうに眉を潜めた。 『スタッフのお呼び出しをいたします。さん、さん。大至急『フェリー乗り場』までお越しください。繰り返しお呼び出しします。‥‥』 (‥‥。やはり、俺は──) 項垂れて落ち込んでいる場合ではない。蔵馬は階段を駆け上がると、まっすぐ正面玄関に向かって走り出す。 「お客様。傘は──?」 「どけ!」 ベルボーイを押しのけて、蔵馬はの下へ──。 フェリー乗り場がどこにあるかは知っている。この建物の構造は勿論のこと、島内の施設に至る全てを頭に叩き込んでいる。 外に出ると、強い風圧が蔵馬を襲った。 やはり、このような状況でを行かせるわけにはいかない。あまりにも危険すぎる。 を止めさせよう。今ならまだ間に合うはずだ。 最初は、蔵馬は自分の存在を周りの妖怪から隠し通す予定でいた。しかし──。 正体を隠すことが枷になって、それでを守れないのであれば、本末転倒だ。 俺が『妖狐蔵馬』だと、ここで声高に叫んでやってもいい。これが原因で、俺の正体が妖怪らに晒されても構わない。 を失うくらいなら、今すぐここで正体を明かしてやる。俺を殺したいならば‥‥殺しにくればいい。 その後、が盾にされたら?今、を失うかもしれないのに?俺にとっての“全て”を、失ってたまるものか。 荒れ狂う黒い波が、月明かりに不気味に煌めいている。 (どこだ‥‥どこにいる!) 凄まじい風が蔵馬の身体を打ち付ける。魔界にはない“生暖かさ”を含んでいた。 フェリー乗り場に着くと、船は一隻も停泊していなかった。 既に出港してしまったのか。この暴風の中で──! そんな筈ない、そんな筈はない。どこかに避難している筈だと、蔵馬はかぶりを振りながら必死に自分に言い聞かせた。 踵を返し、雨でぬかるんだ森を走り抜ける。純白の白装束が泥にまみれ、木枝で体が擦れ血が滲む──。 「──!」 いつの間にか、蔵馬はの名前を叫んでいた。
魔界にいた頃とは異なり、2人は『観客』と『スタッフ』の関係です。 さてさて、終盤は『裏』に移行するかも(?)しれません。というのも「そろそろ」という声が多いのです(-_-;)。 しかし問題が一つ。『鏡』をお読みいただいた方はお分かりかと思われますが、設定上普通の“恋愛”が難しい関係なんです。 実は既に最終話まで完成しており、一部の方には公開してますが、その方によると『R-15』が相応しいそうです(15と18の線引きってどこ?)。 ただこの小説は、小学生や中学生の方もお読みになってくださってるので‥‥で‥‥で‥‥まだ迷っている(滝汗)。 |