闇に咲く花 第2部-3話

 コエンマは、の決断を既に察していたのだろうか?
 やれやれと言いながら懐から取り出したのは、達の次の『働き場所』が記されたパンフレットだった。
「この中に書類があるから署名を──」と言いかけて、顔を青ざめる。
「しまった。わしとしたことが、肝心の書類を忘れてしまった」
 普通の人間ならば履歴書持って会社に面接してもらうのが普通だが、霊界の傘下に入っていると、辞めても次の働き先が当たり前のように用意されている。
「わしは一度霊界に戻る。その間に、パンフレットにはしっかり目を通しておけ」
 踵を返したコエンマが、蔵馬達に背を向けた。
『今なら殺れる。今なら──』
 今にも飛び掛かりたい黒鵺だが、蔵馬と同じでの立場を悪くしたくないため、拳を握りしめて耐えるしかない。
 無防備で勝ち誇ったようなコエンマを見届けることが辛くて、思わず目を逸らした。


「蔵馬てめぇ、なんてことしやがる!!何故あんな事を言いやがった!?」
 が退出した瞬間、黒鵺の怒りは一気に蔵馬へと注がれた。
 今まで溜め込んでいた怒りが爆発したのか、蔵馬の胸倉を掴むとそのまま壁へと追いやった。
 殺意すら含んだ瞳は深紫にゆらめき、蔵馬を見据えている。
「フッ‥‥。まさかお前が、霊界の前で堪えることが出来たとはな」
 蔵馬は鼻で笑いながら、まるで火に油を注ぐような言い方をしてみせた。
「てめぇ!何故あの女を帰らせるような真似をした!?」
 蔵馬は、黒鵺の手を掴み返すと落ち着くように制する。
「一体何を怒っている?これは俺との問題だ。お前には関係無いだろう」
「いーや、あるね!あの女が帰るとなったら、きっともついて行っちまう!俺が引き留めたところで、が聞くとは思えねぇ」
「なら引き留めるまで説得をすればいい。『魔界に残ってくれ』とな」
「そんな事、言えるわけ──」
「言って嫌われるのは嫌か?たかが人間の女に何を臆している」
「うるせぇ!」
 黒鵺は、掴み返された手を振りほどきながら蔵馬から離れる。
「お前は平気なのか?惚れた女だろ。このまま人間界に返してもいいのかよ」
 蔵馬は答えない。
「あの女がお前に恐れを抱いていたのは、なんとなく分かってた。女と離れるのはそれが理由か?」
 黒鵺だって賊の副将だ。そこまで鈍感ではない。共に生活している以上、ある程度のことは分かる。
「俺だったら、そんな理由で離れたりしねぇ。惚れた女だ。簡単に手放してたまるかよ」
 しばしの沈黙の後、蔵馬は、ほとほと呆れたような顔をして大げさにため息をつく。
「本当に熱くなりやすい奴だなお前は。俺の話を聞きもせん。先走るその性格、いい加減治したらどうだ」
「‥‥‥‥んぁ?」
「お前は今、大変な『誤解』をしているようだ。お前との仲ならば、言わんとも通じると思っていたが‥‥無理だったようだな」
「どういう意味だ」
「敵をワザと有利な側に立たせ、頃合い加減で隙を与えて叩く。作戦の初歩だろう」
 黒鵺は、しばし頭を傾げ‥‥あっ!と気づいたような表情を見せた。
「俺も同じだ。を手放すつもりはないさ」
 確かに今、は蔵馬を恐れ、離れようとしている。
 今の状態で、無理強いして引き止めたところで逆効果。蔵馬を更に恐れるだけだ。
 ここは一旦離れ、の心をが落ち着かせたほうがいい。
 愛した女だ。いつかは取り戻すつもりだ。このまま別れようなどとは思わない。
「何だ、そういうことかよ」
 恥ずかしさを誤魔化す為か、自身の頭を掻きながら蔵馬に背を向けた。
「お前の作戦、正直分かりにくいんだよ」
 このようなシチュエーションは、過去に何度もあるらしい。その証拠に、黒鵺は納得するなり、何事も無かったかのようにソファーに座り込むと、蔵馬の次の言葉を待った。
 起こりうる事態を想定し物事を判断する蔵馬。対して、現在の状況から物事を判断する黒鵺。
 この両極端の頭と副将で、よく賊が派閥無く統率されているものである。
「お前の頭の中は一体どうなってんだ?その知略知慮、一度拝見したいよ。お前が敵に回っていたらと思うとゾッとするぜ」

 二人は玄関前の庭で胡坐をかいた。込み入った話をするには、やはり外の方が落ち着くってもんだ。
「まずあの二人だが‥‥。人間でありながら命知らずが過ぎる。魔界が危険な地だということを、全く理解していない」
「そんなの初対面の時にわかってたさ。魔界が危険って分かってたら、来ねーよな普通は」
「妖怪の恐ろしさも、俺の事についても、霊界に話を聞いて分かった気になっていただけだろう」
 は蔵馬に出会っても、恐れたりはしなかった。
「多分あれから、俺の事を詳しく調べたのだろう。調べるにつれ、妖怪は勿論だが、俺さえも恐ろしくなったんだろう」
「確かにお前は名が通っているからな。でもよぉ。あれだけ妖怪を間近で治療しまくっておいて、今更妖怪の何を恐れるんだよ」
「ここに送られてくる妖怪は傷を負って弱っているヤツばかりだから、妖怪の真の姿は実感できん」
 仕事に慣れるのが精いっぱいで、自分がどれだけ危険な地に居るか、俯瞰して考える余裕すらなかった。
「最近は慣れて心に余裕が出来た分、それが返って色々考えるキッカケになっちまった‥‥」
「そういうことだ」
「今のには、ひとまず落ち着く環境が必要だ。取り乱している状態では考えもまとまらん。一旦は俺と離れたほうが良いだろう」
 黒鵺は、「惚れた女が自分を恐れている事は、辛くはないのか」と尋ねる。
「確かに少し堪えるな。どう再び振り向かせれば良いのか、皆目分からん」
 蔵馬は苦笑いを浮かべながら、自身の手を握り締めて視線を落とした。
「この俺が、まさか人間の女を愛すとは思わなかった。だが自分の心に嘘はつけんし、後戻りもできん。俺は既に、と出逢う以前の生活を思い出せなくなりつつある」
「確かにそれはあるな。最近、夜に眠くなってきやがった。それに、人間から与えられた物を食ってる時点で、もう昔の俺らじゃねぇ」
 今まで毒見を介せない場では、自らが獲た食べ物しか口にしなかった。
 妖怪同士でも信用しないのに、人間のが与えた食べものは、平気で口にする。実に不思議だ。
「あと1年経ってみろ。賊を狩る腕もなまってくると思うぜ?」
「そう思うと恐ろしいがな。だが、お前は昔の自分を取り戻すために、あの女と離れようと思うか?」
 黒鵺は、首を横に振る。
「それでも俺は離れない。あの女が側にいるなら、盗賊には未練はねぇよ」
 蔵馬と黒鵺の心は確実に変わりつつある。この先、考えた方、生き方すらも変わってくるかもしれない。
 だが、全て受け入れるつもりだ。変わることを否定するということは、愛する者と出逢ったことを否定することだ。
 愛する者と離れたくない気持ちが、何より強い。

 共に居たい──。それ以上、何も望むものはないのだ。
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