闇に咲く花 第3部−7話

『ねぇねぇ聞いた?武術会で優勝した選手、妖怪になったんだって』
『うっそ。人間から妖怪になったの?』
『霊界は受け入れるそうよ。優勝したら、なんでも一つだけ願いを叶えてくれるんだって』
『強くなりたいんなら、人間だと力も寿命も限界があるもの。分かる気はするな』
『でも、仲間の女の子は反対してたそうよ。なんだか可哀想よね』
『その子を守るために妖怪になったんじゃないの?』
『それはないと思う。でも、その子を守る為に強くなりたいんだとしたら、ちょっと素敵じゃない?』

 は泣き疲れて、医務室前に置かれている長椅子で横になっていた。
 医務室から漏れてくる、スタッフの話し声。人間だとか、妖怪だとか、いい加減聞き飽きた。
「どうしたんだ。具合でも悪いのかい?」
 耳元で人の声が聞こえ、そっと目を開けた。
 幻海が、心配そうにの顔を覗き込んでいた。
「決勝戦の傷がどうにも痛くてね。なんか薬でもあるかい?」

 診察したところ、少し化膿しかけていた為、はその場で処置を施した。
 スタッフらは、未だに幻海に関わる話を続けており、止めさせようとコンコンとドアを叩いた。
 しかし彼らは、こちらに向かって軽く舌を出しただけで、また噂話を再開した。
 無理もない。好き勝手に噂している優勝者が、まさかここにいる女の子だとは思わないのだろう。の妹と紹介しても通じるほどだ。
 幻海は「気にしなくていい」と言ってくれたが、気分のいい話ではないはずだ。
「やれやれ。もうあんた達にまで話が広がっているんだね」
 幻海は苦笑いを浮かべながら、軽くため息をついた。
「まぁ、いいさ。でも、あんたこそ大変だったんじゃないかい?」
「え?」
「真ん前で観戦してただろう?よく生きてたよ。あんたを庇った男はどうなったんだい?」
「‥‥今、コエンマが治療中です」
 包帯を巻き終え、しばし沈黙が流れた。
 は、幻海の瞳を見つめた。
「なんだい?」
 聞いてはいけない。そんな失礼な事は聞いてはいけないと、喉元まで出かかった言葉を必死に押しとどめる。
「なんか言いたそうな顔だね」
 本当に鋭い子だ。は、怒られるのを覚悟で、思い切って聞いてみた。だって彼女は──当事者だ。

「あいつが、私を護るために妖怪になったとしたら──だって?」
「あなたは以前、妖怪に狙われているって言ってましたよね。もし、そんなあなたを護るためだったとしたら、その方を願いを許しましたか?」
 あの男が妖怪になった動機は、それとは違う。あり得ないよと、幻海は眉間に皺を寄せた。
「あんたを庇った男は妖怪だって聞いたけど、元は人間だったのかい?」
「まさか!」
「だったら、あんたを護るために、その男が妖怪になることは無い‥‥」
 そこまで言って、幻海は気づいた。
「まさかあんた、あの男を護るために妖怪になろうと思ってるのかい?」
「え、ええ。ダメだって却下されちゃいましたけど」
 人間という理由だけで理不尽に命を狙われ、その都度庇われる。
 だったらいっそ自分も妖怪になれば、蔵馬にかかる負担が減るのではないか?なんて。
 はたから見れば健気に見える行為だが、蔵馬は激怒し、二度とそのような事を言うなと叱られた。
 とはいえ、の気持ちは、幻海も同じ女性だから何となくは分かる。
「確かに、今後も似たようなことは腐るほど起こるだろうねぇ。あんたが人間である以上、避けて通れやしないしね」
 そんなにハッキリ言わなくたっていいじゃない?腰を浮かせて反論しようとすると、幻海がの言葉をさえぎった。
「きっとその男は、あんたより後には死にたくないのさ」
「え?」
「あんたを失って独り取り遺されるくらいなら、庇って死にたいんだよ。自分が先に死んどけば、あんたの死に顔見なくて済むだろ?」
「そんな──」
 飄々と、幻海は笑った。
「まぁ、男の気持ちも分かる気はするよ。あんたの最期を見届けるにしても、寿命を全うするのと殺されるのでは全然違うからね。遺された側が人間なら、近いうちに自分も逝けるけど、妖怪は無理だしね」
 愛する者が居ない世。悲しみと喪失を抱えたまま、数千年という気の遠くなるような年月を、寿命を全うするまで生き続けるのは、妖怪にとっては酷な話だ。
 だったら、庇って先に死んだほうが楽ってもんだろう。
「妖怪になれば寿命も伸びて、ずっと一緒に暮らせるかもしれない。それでも、あんたに変わって欲しくは無いんだ。あの男は、今のあんただから良いんだよ」
 幻海は、治療を終えた腕を動かしながら──。
「もしあの男が、あんたに合わせるために人間になりたいって言ったら、あんただって怒るだろう?それと同じさ。私も許さないと思うよ」
 既に妖怪に転生してしまったチームメイトを想ってか、幻海は少し寂しそうだった。
「好きにさせときな。あんたはただ護ってもらっとけば良いんだ。そして気が向いたら、あの男の立場に立ってやんな。“独り遺される”事がどういうことか、きっとわかるからさ」
 と幻海は、見た目こそ同年齢だが、は彼女の数倍は生きている。しかし幻海の方が、よりも深い人生を歩んでいるように思えた。

──処置室──
 蔵馬が、治療台に乗せられていた。
 コエンマと霊界鬼たちは、今は霊界にいる。
 処置室と、魔界のらの家に直通で魔界の穴を繋いで、連れ帰るのだそうだ。
 蔵馬がここにいて、かつ重体であると色濃く疑われている以上、一刻も早く魔界に連れ帰さないと、殺される可能性さえあるからだ。
 体に受けた傷も、やはり魔界の方が治りが早いらしい。
 雲鬼たちは、魔界の穴を開けるだけの霊力を蔵馬の為に費やしてしまったため、一度霊界に戻って霊力を回復しているという。
 蔵馬の額に滲む、玉のような汗。血に染まった白装束。未だ激痛が体中を走っているのか、呼吸も荒い。
 雷鬼はを癒しながら、「傷を塞ぐことはできるが、身体に受けた“衝撃”までは癒せない。しばらくは痛いが我慢しろよ」と言っていた。
 確かに、歩くたびに激痛が走る。しかし蔵馬はまともに衝撃を受けている分、痛みはの比ではないはずだ。
 蔵馬の額の汗を拭きとりながら、そっと彼の手を取った。
 夢を見ているのだろうか。彼の手は何かを探しているようだった。
 彼の名前を囁いた時、処置室宛に呼び出しを告げる内線電話が鳴り響いた。
 電話を取ろうとして、踵を返す。

「行くな!」
 蔵馬が、の手を握りしめた。
 内線の電話がけたたましく鳴り響いている。
 蔵馬の手を振りほどこうとするが、まるで離すまいと更に力がこめられ‥‥彼の腕から再び血が滲みだした。
「行くな。行っては‥‥いけない!‥‥
 名前を呼ばれた瞬間、体中が熱くなった。
 云わばこの一連の惨事は、の自殺行為によって起きた事故である。
 の愚かな行為の犠牲になることはない。自業自得だ。自身の命を懸けて庇ってやる必要などない。
 医療スタッフは、ら以外は妖怪。蔵馬が重傷を負った経緯を説明していた時の、彼らの冷たい視線は忘れられない。
 『蔵馬に申し訳ない』『蔵馬に合わせる顔がない』
 蔵馬を処置室に送り届けた際、彼に怪我を負わせてしまったことを黒鵺に謝罪をしたが、黒鵺はを責めたりはしなかった。
『安心しろ。貴様に謝罪や責任を求めたりはしない。こいつが勝手に貴様を守っての結果なら、俺も部下も受け入れるさ』
 これは蔵馬の言葉だったが、むろん黒鵺も同じ考えである。今回は立場が逆だっただけのこと。
 もしだったら、自分だって飛び出していた。‥‥お互い様だ。
 を責める声が挙がるたび、人間であることを罵られるたびに、黒鵺はスタッフに鎌を突きつけた。
 自分を責め続けるが、にダブったのだろうか──。
 スタジアムにいた多くの妖怪を斬り殺し、滴るほどの返り血を浴びた黒鵺の姿は、スタッフを凍りつかせるには十分だった。

 夢の中で、蔵馬は必死にを護ろうとしている。振りほどかれようとする手を強く握りしめ、自分の元に引き戻そうとしている。
 目が覚めるまで、蔵馬はその夢を見続けるのだろうか。悪夢のような瞬間を、何度も────。
「早く‥‥ここから逃げろ」
 蔵馬の夢の中では、は手を握り返したのだろうか。
 こんなことになってしまっても、それでも蔵馬はを逃がそうとしている。
「蔵馬‥‥」
 妖怪が、“独り取り遺される恐怖”を、ようやく理解した。
 は所詮は人間だ。蔵馬よりも早く死んでしまう。
 暗黒鏡の力がどこまで続くのかは分からないが、人間である以上、妖怪よりは短命だろう。
 もしが寿命を全うしたならば、まだ受け入れられる。だが事故、まして妖怪に殺されたとしたら。
 愛する者を失うくらいなら、いっそ自分が──。

『護ってもらっときな。その男はそれで満足なんだから』
 幻海の言葉の意味が、やっとわかった。
「大丈夫‥‥大丈夫よ。私はどこにも行かない。ずっと‥‥蔵馬のそばにいるから」
 は蔵馬の手を握りしめ、そっと自身の胸に引き寄せた。


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