闇に咲く花 第3部−9話

 廊下には明かりが点いていなかった。
 の部屋を出た途端、あまりの暗闇に、蔵馬は思わず息をのんだ。
 妖力が尽きているためなのか、夜目がまるで利かない。こんな事は初めてだった。
 リビングにゆっくりと目をやると、ソファに人影が見え──背格好だけで一目でだと分かった。
 目が慣れるごとに、だらりと垂れた腕が視界に入ってくる。かすかな煤と血の臭い。月の無い闇夜の中で、の肢体の輪郭が、白くぼんやりと浮かんでみえた。
 霊界がの傷を治癒したことは頭では分かっているが、それでも近づくのが怖い。足が鉛のように重く、一歩を踏み出すごとに、足が震えた。
「‥‥らま」
 微かな声に、耳を傾ける。
 ゆっくりと、がソファから身を起こそうとしている。
 痛みを堪えながらも起き上がろうとするを、手を貸すことも無く、ただ黙って見つめる。
(生きている──)
 目が合った瞬間、二人は互いに心の中でそう叫び、胸をなで下ろした。
 蔵馬の視界が滲んでゆく。淡い視界を拭おうとして、それが“涙”だと知るのに、そう時間はかからなかった。
 こんな自分が、涙を流せるほどの強い感情を持ち合わせていたことに、驚きを感じつつも、どこか幸せにも思えた。
 笑みを見せながらに歩み寄ると、すっと腰を落とした。
 が手を伸ばすと、蔵馬はその手を優しく取り、自身の頬にそっと宛がった。
 温かなぬくもりが伝わってくる。改めて、が生きていることを実感し‥‥安堵のため息を漏らした。
「まだ痛むか?」
 は、少し戸惑いを見せながら首を横に振った。
「蔵馬が庇ってくれたから大丈夫。‥‥‥‥ゴメンね、痛かったでしょう?」
「気にするな。傷はもう塞がっている」
「霊界鬼が治してくれたの」
「そうらしいな」
「コエンマも手伝ってくれたの」
「そうか」
「あとね、蔵馬を殺そうとしていた妖怪を黒鵺がやっつけてくれたのよ」
「‥‥」
 蔵馬が、をじっと見つめる。夜目が利かない為か、の姿がいつもより霞んで見える。
 このまま消えてしまいそうな錯覚に陥り、の手を包む力に、少し力が入った。
「黒鵺から聞いた。俺を庇ってくれたらしいな」
 の顔が途端に青ざめた。叱られると思ったのだろう。が咄嗟に振り解こうとした手を、思わず放すまいと握り返した。
「俺が生きているのはお前のおかげだ。礼を言う。確かに俺を治したのは霊界かもしれん。しかし、俺が殺されなかったのは、お前が俺を庇ってくれたからだろう?」
「私、蔵馬の役に立てたのかしら?」
 蔵馬は、「そうだ」と笑みを見せながらも、こんな事をするのは今回限りにしてくれと、強く懇願した。
「私が霊気を晒したこと?それとも、蔵馬を庇ったこと?」
「どちらもだ。一つ聞くが、お前はあの後どうするつもりだった?」
「あの後って?」
「俺を庇った後だ。もし霊界鬼が来なかったら、一体どうするつもりだった?どんな策を考えていた?」
「どうするって──。特に何も考えてなかった‥‥かも」
 蔵馬の目が点になる。
「えへへ、一緒に斬られちゃったかもね」
 蔵馬は呆気にとられたという感じで、開いた口が塞がらなかった。
「良いじゃない。二人とも助かったんだから。いまさら色々突っ込まないでよ」
 それは結果論にすぎない。後先考えずに動くは、実に恐ろしいものがある。
「もう二度とこんなことはするな。俺の事はどうでもいい。捨てていけ」
「さっきは感謝してるって言ってくれたじゃない」
「確かに感謝はしたが、策がないのに護ろうなど、いくらなんでも無謀すぎる。危険だ」
 すると、そういう自分はどうなのよ?と、は蔵馬に反論する。
 を庇うため、受け身も取らずに飛び出したではないか。人のことが言える立場なのかと──。
「だってしょうがないじゃない!体が勝手に動いちゃったんだもの。蔵馬だってそうなんでしょう?」
 すると蔵馬はから目を逸らし、困惑したような表情を見せた。
「ごめんね。蔵馬を護ったこと、迷惑だった?」
「迷惑?そんなことはない!お前は俺を──」
 だって、蔵馬を護りたかった。蔵馬がを護りたい気持ちと同じぐらい、にも蔵馬を護りたい気持ちがあるのだ。
 は人間で、蔵馬は妖怪。能力・力の差は雲泥の差。蔵馬にとって、は自分に“護られる存在”だ。
 今日まで、蔵馬はを護ってきた。そしてこれからも──。それが当然で、なんの疑問も持たなかった。
 しかし、なりに、蔵馬を支えよう・護ろうとしていたのだ。
 人間の身で、その力は妖怪には到底敵わないと知っていながら──。
 を強く抱きしめると、その腕の中に小さな身体が収まった。
 己の力が無力だと知っていて、それでも怯まずに妖怪に立ちはだかった。
 一体、どれほどの勇気がいったことだろう。
 殺意に満ちた妖怪に囲まれながら、一歩たりとも引かなかったの姿を想像すると、胸が熱くなった。
 愛する者に護られるというのは、ここまで満ち足りた気分にさせるものなのか。
 今、生きながらえた己の命がここに在ることを、改めて実感している。
『黒鵺が私を庇う気持ちと同じぐらい、私も黒鵺を庇いたい気持ちがあるの』
(女‥‥。それはも同じなんだろう?)
 蔵馬はもう、を責める気にならなかった。
「いいか。今回の事が遭ったからといって、自制はするな。危険の渦に飛び込むのは避けるべきだが、危険を恐れて愉しみを殺して生きるような、愚かな真似はするな」
「蔵馬‥‥」
「お前は楚々とした姿をしていながら、あの女以上に好戦的だ。ひとたび怒れば、俺にも手に負えん時もある。そんなお前が、閑寂に過ごせるわけないだろう」
 自身の頬をさすりながら、叩かれた頬の感触は未だに忘れられないと、蔵馬は意地悪そうに呟く。
 なんだかイラつく言い方だ。ただ『楚々な女性』と言えば良いではないか。
「お前のおかげで、毎日が飽きんよ。毎朝、今日は何が起こるのかと考えたりもする。昔の俺は、淡々とした日々を‥‥。なんだ?」
 が睨んでいた。
「俺は、退屈な女に興味は無い」
「それって褒めてないわよね」
 が上目遣いに問いただす。
「言い過ぎか?だが、だからこそお前を愛した。それでも不満か?」
 なんと返したらいいか迷い俯いていると、蔵馬はの頬をすくいあげる。
「約束しろ。己を偽って生きるような、愚かなことはするな」
 それによって、また同じようなことが起こったとしても──。
 妖怪の寿命は人間より遥かに長い。雷鬼は、蔵馬が後に残される可能性を告げたことがある。
「お前にを看取る覚悟はあるのか?」
 覚悟などない。それでも、の寿命を延ばす為、妖怪にさせるつもりはない。
 矛盾しているようだが、には、何も変わってほしくはない。
 だが雲鬼は今回の件で、「案外、を護ってあなたが先に死ぬ可能性もあり得ますね」と笑っていた。
「死期など目安にすぎません。正直、霊界にだって分かりませんよ。申し上げられる唯一確かな事は、人間も妖怪も霊界人も、等しく最短寿命は“一秒後”です。我々は今この瞬間にさえ、死ぬ可能性があるのですよ」
 が妖怪であって欲しいと願っていた黒鵺に告げた、雲鬼の言葉を思い出す。
 お互い、その瞬間が訪れるまで‥‥命の終焉が訪れるまで‥‥魔界で共に暮らし、共に生きる。
 それ以上、望むものはないと、二人は固く誓いあったのだった。


 それから数時間が経った丑の刻。家に雲鬼と雷鬼がやってきた。
 家に上がった雷鬼は、キッチンで食事の支度をしているを目にした。
 こんな深夜に、しかも病み上がりの身で何やってるんだと雷鬼は忠告したのだが‥‥。
「だってぇ、昼から何にも食べてないんだもん。もうお腹ぺこぺこで眠れなくって!」
「ハハッようやく食欲が出てきたか。いい傾向だが、まだ胃に重いものは食うなよ」
 が小窓を覗いて手を振っている。その先には庭があって、花畑の中で佇む蔵馬の姿があった。
 雲鬼は恐れることなく蔵馬に近づき、何やら雑談を交えると、共に家の中に戻ってゆく。
 蔵馬は、隙だらけの雲鬼の背中を襲うことはない。
 果たして我々は“首くくり島”へ行き、暗黒武術会の会場に居たのだろうか?今の光景を見ていると、全てが夢であったように思えてならない。
 人間と妖怪、そして霊界人が共に同じ空間に居る。何気ない会話に、時折笑みがこぼれる。異質で奇妙でありつつ、どこか不思議な安らぎを感じている。
 この光景が、これから後も続くべきだと願ったりもする。
 妖怪を嫌っていた雷鬼にとって、それは信じられない心の変化であった。
「それで?霊界が魔界まで来て何の要件だ」
「蔵馬、失礼よ!貴方の命の恩人じゃない。助けてもらったんだから」
 “命の恩人”という言葉に、蔵馬が露骨に嫌そうな顔を見せた。
 この一件により、妖怪と霊界の、どこかギクシャクした仲も幾分落ち着く‥‥なんてことは、無いようだ。
「ところで、はいますか?黒鵺もお呼びしてください」
 いつもならば、突き放した口調で「妖怪」としか呼ばない雲鬼が、名前で黒鵺を呼んでくれている。
(う〜ん。まぁ一応、ちょっとは距離は縮まったのかな?)
 は勝手にそう納得し、腕組みしながらウンウン頷くと、蔵馬はそれを不思議そうに眺めていた。

 と黒鵺が、のそのそとリビングにやってきた。ついさっきまで寝ていた2人は、共に大あくびをしながら現れる。
 久しぶりに良く寝たと、肩をまわしながら背伸びをする黒鵺に、蔵馬は落胆の表情を浮かべていた。
「ん?なんだお前ら!霊界が何の用だよ」
 霊界鬼の存在に気付いた途端、黒鵺が目を擦って尋ねる。たまらず雲鬼が咳払いをして制した。
「え──、単刀直入に申し上げる。を『解雇せよ』との命を、コエンマ様から受け取った。私達は、その報告をしに参った次第だ」
「──────解雇!?」
 が口を揃える。
「そうだ。解雇だ」
「お、おいおい。なんだぁその「か‥‥かいこ」って」
 の驚く顔を見て、黒鵺が不思議そうに尋ねた。
「失礼。妖怪にはその言葉は通じませんかね。早い話が、霊界はの職を解くのです。明日には正式な通達が出ることでしょう」
「クビ‥‥ってやつか?」
「そうです。そういう“俗称”はご存じなんですね」
 そんな言葉を、一体誰が教えたのか。は、顔を真っ赤にして俯いた。
「霊界との主従関係も白紙に戻ります。霊界は今後一切、彼女たちの行動を監視及び追跡もしません」
「やったなぁ!!!」
 黒鵺はの肩を叩いて、嬉しそうに叫んだ。
「というわけで、霊界に保管してあるお前たちの所有物があれば、一両日中に引き取りをお願いします」
「ちょ、ちょっと。一両日中って‥‥」
「規則だ」
「そんなぁ」
 こういう時に限って“規則”と言って引かない霊界に、は「一両日中なんて、いくらなんでも急すぎる」と嘆き、は「融通聞かない。だから霊界って頭固いって言われる」と愚痴った。
 しかし、やり方こそ急で追い出す形になってしまってはいるが、このままズルズルと霊界の世話になって働き続けるのは、お互い良くないとは内心思っていた。
 ここでスパッと脱却した方が、却っていいのかもしれない。不器用で突飛ではあるが、これが一番いい。
「霊界に“仕えている”形ではなくなる。住む場所も、生き方も、今後はお前たちが決めるんだ。霊界は一切、お前達の生活を縛ることはない」
「おいおい拍子抜けだなぁ。もっと嬉しそうな顔をしてくれると思ったよ。もう何処に住もうが何をしようが口を挟まれないし、一切の干渉もされなくなるんだ」
 雷鬼は、呆然としているたちを見て、すこし残念そうに頭を抱えた。
 泣いて感謝を述べるシーンを想像したりしていたからか。
 しかし無理もない。今までの生活環境が1日で激変したのだ。現実感すら沸かないだろう。
「えー、霊界の所有物は全て引き取らせてもらう。と言っても殆どだがな。医療機器、ベッド、テーブル──」
 クリップボードに挟んである書類に、淡々とチェックマークを記す雲鬼。
 即座にが横から奪い取り‥‥「うそっ、やだ!こんなものまで持ってくの!?」と叫んだ。
「当たり前だろ。霊界が買い揃えたんだぞ。元々は霊界の持ち物だ」
「うわ、せこっ。それぐらい餞別にしてよ。私達は、コエンマの可愛い〜部下だったんだから♪」
「せこいのはお前の方だ。それとこれとは話は別だろ」
 ものすごく嫌な予感がして、は恐る恐る、が持つクリップボードを横目で見ながら聞いてみる。
「ねえ、もしかして‥‥家は?」
「もちろん引き取るぞ。霊界が“貸してやってる”んだからな」
「え────!?」
 が、悲鳴のような叫び声を挙げたのは、言うまでもない。


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