黒鵺が、の手をそっと握りしめている。 外は白々と夜は明け、洞窟を暖かな光が射しはじめた。 (夜明け、か‥‥) 黒鵺はすっと立ちあがり、射しこむ光を欲するように浴びると、そっと手を翳した。 この部屋は心地よい。 を賊に迎えても、慣れない世界だ。しばらくは色々と気苦労が多い事だろう。だったらせめて、朝を心地よく迎えてもらいたい。 は、この暖かな朝日と共に目覚め、穏やかな1日を迎える。そう願い、この部屋をの為に用意した。 まさか、こんなことになるとは──。 暖かな日の光を身に浴びる。しかし‥‥何も感じることはない。まるで、冷たく深い闇の中にいるかのようだ。 心地よく暖かな光も、そよぐ風も、小鳥のさえずりさえも、今は何一つとして、黒鵺の胸には響かなかった。 「──っ!?」 身体に一瞬、妙な痺れが走り、思わず身をかがめた。 その時。 ほんのかすかだが、が声をあげた。 そのかすかな声に反応し、黒鵺は駆け寄っての名を叫んだ。 が、ゆっくりと目を開ける。 「黒‥‥鵺‥‥?」 か細い声ではあるが、しっかりと、黒鵺の名を呼んだ。 の頬に、温かな滴が流れ落ちる。それは、初めて流した‥‥黒鵺の涙だった。 1時間後、は全快した。 今までの症状がまるで嘘のように、ケロッとした表情をして、顔色もすこぶるよく、台所で何やら忙しそうに歩き回っていた。 全ては、蔵馬の診立て通り。 身体を弛緩させるのが目的。命を取るものではなく、ましてや体内に残ることも、後を引くことすらもなかった。 「あいつが大げさなだけだ」 「酷い。そんなこと言わないであげて。だってその毒ガス、人間が浴びるのは初めてだったんでしょう?だったら動揺しても仕方がないわよ」 「だから、俺はその動揺を鎮めてやろうとしたんだ」 「それだけの事が心配だったのよ」 「それにしたって、あいつは副将だ。いかなる時でも冷静さを失ってはならない」 他人事で偉そうな口調に、は少しムッとする。 「そうだ!ねぇ。妖怪に氷嚢って効果あると思う?」 「黒鵺さんに持ってくの?蔵馬に聞いてみたいけど‥‥持っていかない方がいいかもよ」 「そ、そうね。蔵馬さんの薬草で、十分治る‥‥ものね。多分」 ヒソヒソと、とは囁き合う。 黒鵺は蔵馬の診立てを信用しなかった。これで、とまでもが蔵馬の薬草の効果を信用せずに氷嚢を持っていったら──それこそ蔵馬の立場がない。 黒鵺の部屋。 部屋の間仕切りの布を、そぉっと開けると、黒鵺が寝所で横になっていた。 起きていたのか、ムクッと体を起こし、顔をこちらに向ける。 目が合った瞬間、思わず後ずさりをして間仕切りの布を閉めると、黒鵺はの名を呼び、入ってくるよう促した。 は恐る恐る、再び間仕切りの布を開ける。 「どうしたんだ?入ってこいよ」 正直、黒鵺の姿を近くで見るのが怖い。ケガをしていたらどうしよう──。苦しんでいたらどうしよう──。 「体は大丈夫?黒鵺」 「心配するな。放っておけば、直に治るさ」 蔵馬が調合した薬が効いてきたと黒鵺は笑った。しかし、額には玉のような汗が光り、時折弾ませる荒い息が耳につく。 (どうしよう。やっぱりケガしたんだ‥‥) 黒鵺が敵賊副将の剣を蹴り上げた際、頬に剣が掠ったが、そこに毒が塗られていたらしい。 剣を回収した蔵馬が発見してに伝え、それをは又聞きした。 直後の黒鵺に異状はなかったが、それは毒が全身に回るのに時間がかかったからだと──実に冷静に、蔵馬は黒鵺を診ていた。 毒が全身に回るまでおそらく数時間──黒鵺に症状こそは現れていなかったものの、蔵馬は、万一の為にと解毒剤を調合していた。 の全快と入れ違うように、黒鵺は毒が全身に回ってその場に倒れてしまったが、蔵馬のおかげですぐに対処することができた。 一難去ってまた一難。1日に3回も黒鵺の手を煩わせる始末。ここまでくると、さすがに責任を感じてしまう。 「ごめんね‥‥。黒鵺、ごめんね‥‥」 「なぁに。こんなもん、すぐに回復するさ」 しきりに謝り続けるに、黒鵺はヒラヒラと手を振った。 「けどよ、あんときは咄嗟に剣を蹴り上げちまったが、お前に当たらなくて本当によかったぜ。もし人間のお前に掠りでもしていたら、おそらく助かってなかったって蔵馬が言っていたからよ。さすがに、俺もそこまで考える余裕が無くてな」 あっけらかんと笑ってはいるものの、黒鵺は時折苦しそうに肩で息をしていた。 妖力の強い黒鵺で、この有様である。確かに、これを人間の身体で受けてしまったら、おそらく死んでいることだろう。 「よせよ、そんな顔すんじゃねぇ。俺は大丈夫なんだからよ」 「何言ってるのよ!全く、強がりなのよ黒鵺は。‥‥ねぇ。私、黒鵺の看病してもいい?いいわよね?」 「‥‥」 口やかましくて、高圧的で。しかしそれでいて繊細で、怖がりで、淑やかで。 揺れ動く両極端な心。刹那の心の中に垣間見る、曲がらずに凛とした心。黒鵺好みの──“強い女”。 それらは決して、腕力とか能力とか、目に見えるものではない。 黒鵺の額の汗をそっと拭う。自分を労わる温かな手に触れられると、言いようのない心地よさに満たされていくのがわかる。 「どうしたの?どこか苦しい?」 「いや、なんでもない」 射しこむ陽の光が、とても暖かく、そして心地よい。さきほどまで何とも思わなかった全てが、光を帯びて煌めきだした。 なにより、の生きた姿──声──動く姿をこの目で見ることができただけで、救われた気がした。 黒鵺はの看病を受けながら、再び眠りについた。 再び目覚めた黒鵺は、自身の右手を額に宛がった。既に熱は下がっていた。痺れもない。 (さすが蔵馬だな。良い腕してやがるぜ) ゆっくりと首を横に向けると、そこにはの姿があり、気持ちよさそうに眠っていた。 椅子の背もたれ側に座り、己の腕を枕代わりにして器用に眠っている。 ずっと黒鵺の看病をしていたのだろう。の背には毛布がかけられている。 蔵馬はに対してそのようなことはしないから、おそらくの連れの女のしたことだろう。 は、一度こうと決めたらテコでも考えを曲げようとしない。 それをあの女も知っているからこそ、無理にを止めることはせず、毛布を誂えたのかもしれない。 蔵馬が人間界で覚えた格言によれば、は『竹を割ったような性格』だそうだ。そして、それは俺にも当てはまるらしい。 要するに、“似た者同士”で性格が似ているという。 解せない。このはた迷惑な女のどこが、俺に似ているというのか。 こんな、口やかましくて、気が強くて、やたらトラブルを抱えて‥‥あげればキリがない。 どうして俺は、そんな女を体を張ってまで護っているのだろうと、自問自答する時もある。 しかし──。この女は、自分の心に安らぎを与えてくれる。そして‥‥心の底から愛しく思う。護りたいと思う。 今まで、を愛した理由を探していた。 だが、を失うかもしれないと思った瞬間──。もう、どうでもいいと思った。 を傷つけたくない。失いたくない。絶対に──。 を愛した理由など、おそらく探しても見つからない。そのような事を考えている暇があるなら、を生かし続けることだけ考えるべきだ。 独り生き残っての死ぬ姿を見るぐらいなら、代わりに死んだ方がマシだ。 の寝姿を眺め──やはり、自分が愛せるのはこの女しかいないと確信する。 「クシュン!」 くしゃみと同時にはバランスを崩して目を覚まし、顔を上げたところで黒鵺と目が合った。 「黒鵺、起きていたの?もう、体は大丈夫?」 眼をこすりながらが駆け寄ると、黒鵺は心配ないと笑みを浮かべた。 しばしの沈黙の後、「あの──」と同時にハモった。 黒鵺がの言葉を待っていると、はポツリ‥‥と蚊の鳴くような声で呟いた。 「黒鵺、ほんとに大丈夫?──ごめんね」 もはや何度目か分からないの謝罪。その言葉に黒鵺は思わず眉をひそめた。その不機嫌そうな黒鵺の顔を見たは気おくれし、再び謝ってきた。 黒鵺の額にあふれる汗を拭おうとするの手を、黒鵺は掴み取る。 「気に入らねぇな」 「ご、ごめん。だって‥‥汗が、垂れちゃうと思って。‥‥ごめんね」 チッと、黒鵺は大げさに舌打ちをした。いつもは反論してくるだが、シュンとする姿を見ていると、いら立ちが募る。 「そうじゃねぇ。お前、さっきから謝ってばかりだな。ごめんごめんって、一体何回言えば気が済むんだ。いい加減聞き飽きたぜ、ったく‥‥お前らしくもねぇ」 ものには“言い方”ってものがある。さっきまで青白い顔で震えていた黒鵺だったが、が無事だと分かった途端、現金なのもので、彼はいつもの調子に戻りつつあった。 「らしくないって‥‥。悪かったわね。私だって、たまには落ち込むわよ。勝手な行動をして、黒鵺をこんな目に遭わせたんだもの。なのに、なんの責任を感じずにヘラヘラしてる方がおかしいと思わない?私はそんな薄情な女じゃないわよ」 は未だ青白い黒鵺の顔を眺めながら、心配そうに首をかしげる。 「ねぇ黒鵺、ほんとうに大丈夫?‥‥ごめんね。今回は私、とても無茶な事をしたと思ってる。反省してるわ」 痛くない?苦しくない?と、は矢継ぎ早に尋ねてくる。 だが黒鵺はその質問には答えず、逆に、なぜあんな真似をしたのかと聞き返した。 「自分でもよくわからないわ。ただね、黒鵺の為に何かしたいと思ったの。こんな私でも黒鵺の役に立てるなら、何かやりたいって思ったのよ」 「俺の為?お前が敵の中に飛び込むことがか?冗談だろ!?」 「だってぇ。『私が危険な目に遭えば、黒鵺は早く戦いを終わせようと焦って強くなる』って聞いたんだもの」 開いた口が塞がらない。まるで、子どもが考えるような浅はかな作戦だ。おそらく加羅に言われたのだろうが、それにしたって──。 黒鵺は、その強引な論理を素直に信じたに驚いてしまう。 確かに、が危険な目に遭えば、傷つけたくない──失いたくないと必死に護るだろう。いわゆる『火事場の馬鹿力』が出るのは確かだ。 しかしそれは、一歩間違えれば全てが台無しになってしまうほどの危険な作戦だ。そんな一か八かの作戦、実行する価値などない。 蔵馬だって、そんなバカげた作戦は却下するに違いない 「今回は初めてだったから失敗しちゃったけど、この次は失敗しないって約束するわ」 (この次ぃ?バカ野郎!次なんてあるわけねぇだろ!) は、次の戦について自分なりに考えた作戦をペラペラと話しだした。 その作戦は、自分を『餌』にして賊をおびき出すというもの。 あれだけ怖い目に遭ったにも関わらず、全く恐怖に戦かず、臆することさえない。 (相変わらず、つぇぇ女だぜ) などと感心している場合ではない。そんな作戦を勝手に実行されてしまっては困る。黒鵺はの胸ぐらを掴んで引き寄せると、ベッドに押し倒した。 「いい加減にしろ!そんな作戦、俺が認めるとでも思ってんのか!?」」 黒鵺はの身体に覆いかぶさり、激しく叱咤する。 「だって!」 「言っとくがな、俺は、お前を餌にして戦おうなんて思わねぇ。お前を利用して敵をおびき出すなんて、そんなこと考えたこともねぇよ。いいか、絶対やるなよ。やったら許さねぇからな!」 いつになく声を荒げる黒鵺には驚いてしまい、何も言い返せないでいる。 恐れ眼を見開いているの顔を俯瞰しながら、黒鵺は唇をかみしめた。 脅かしたいわけではない。叱りつけたいわけでもない。ましてや、怯えさせたいわけでもない。 蔵馬だったら、きっとうまく諭せるだろう。 困惑しているの頬に手を伸ばすと、は一瞬びくっと反応し、頭を逸らした。 だが黒鵺は、の顎を掬い、自分に向きなおさせる。 「俺は、賊の仲間としてお前を迎えたわけじゃねぇ。お前は何もしなくていいんだ。お前がそばにいるだけで、俺は満足だ」 「それだけ?」 「それだけって‥‥不満かよ」 「何もしなくていいって、そんなのないわ!黒鵺は、私に『置物』になっていろっていうの?腫物に触るように扱うつもり!?そんなことの為に私はここに来たわけじゃないわ」 「そういう意味じゃねぇよ!」 「じゃぁどういう意味なのよ!」 負けじとが黒鵺に吠えた。 「一日中、そばにいるだけ?ひたすら?ずっと?いつまで?貴方はそれでいいかもしれない。でも、私の立場はどうなるのよ!?」 口ゲンカをしようものなら、とにかくは口が達者で強い。蔵馬とは違い、十中八九言い負かされてしまう黒鵺は、次に返す言葉が思い浮かばずに、呆然とを見つめていた。 黒鵺だって、が自分の為に何かをしてくれるのは嬉しいことだ。だからといって、こんな形は望んではいない。 が思いつく“何か”は、たいていが無謀かつ危険な行為だ。 しかも、例え何か遭ったとしても、最後には『何とかなる』と思っているから厄介だ。一切の恐れを知らず、臆することなく突っ走り、とにかく刹那的で、思ったことをすぐ行動に移す。 一方、盗賊として殺伐とした世界で生きている黒鵺は、『何とかなる』という根拠のない自信は絶対に持たない。持ってはならないのだ。 人間と妖怪の、根本的な考えた方の違いなのかもしれない。 (の連れの女も人間だ。どうせ同じ考えだろうな。ったく‥‥蔵馬が聞いたらキレちまうぜ) 妖怪にとって、の体から発せられる霊気は“異質”なものだが、当の本人は気づかない。それに関して“危機感”がない分、危なっかしくて仕方ない。 魔界がどれほど危険な世界なのか。一瞬の気のゆるみが『死』に直結する世界。そんな危険な世界に自分がいるということを、果たしてどの程度理解しているのか。 しかし黒鵺は、に敢えてそれを知らしめようとはしない。知らせれば多少は委縮してくれるだろうが、自分を抑えて生きるの姿を‥‥そこまでして見たいとは思わない。 なにより、危機感が無いと責めることは即ち、が人間であることを責めるのと同じことだ。人間であることは、の責ではない。 俺は、に何かをさせるつもりはない。だが、それではは納得しない。だからと言って、賊に加えるつもりなど毛頭ない。 さえいれば、それ以上、何も望むものはない。その言葉に偽りはない。どうしたら、それが伝わるのだろうか。 (くそっ、わからねぇ!こういう場合、どうすりゃいいんだ?) 論理立てて伝えるのが不慣れな黒鵺は、の瞳を見つめ硬直したまま、動くことができなかった。
ダメで元々。当たって砕けろ。一か八か。そんな性格で動くを、恐ろしく思う黒鵺です。 “気”の強弱がわからないということは、自分がどのくらい弱いのか、一切わからないこということです。まぁ、そういうのを『知らぬが仏』というのですがねぇ。 |