『堕天の園』 1


 天界──誰もが“美しい”と讃える世界。
 七層からなる天の中で最も下層に位置するシャマイム天は、とりわけ美しいとされている。
 人の世に最も近いこの天は、水は流れ空は澄み、鳥がさえずり花も咲く──。上層に住まう天界人達も、わざわざ憩いの時を過ごしに降りて来るほど、笑顔が絶えない“楽園”である。

 そんな笑顔が絶えない“楽園”に、笑顔とは程遠い男が佇んでいる。
 巨大な門の前で、その男は門に手を添え、なにやらぶつぶつ呟いては、苦悶の表情を浮かべている。
 ウェーブがかった、腰まで垂れた銀の髪。金の王冠が、首を傾げるたびに光を浴びて煌く。
 肩にかけたショールに刻まれた≪
大天使≫の紋章。そして、腰に差したるシンボル『光の剣』を見ただけで、彼が何者であるか、天界に住まう天界人なら、まず分かるであろう。
「兄さん‥‥」
 小さな呟きが、幾度となく繰り返されている。
 ため息混じった言葉を再び吐いた時、背後からふいに声をかけられた。
ミカエル殿、さっきからそこで何をしておる?」
 ミカエルと呼ばれた男は、静かに首だけを振り向けた。
カマエル‥‥‥‥‥‥様」
 とって付けたような語尾の敬称に、カマエルは小さく眉間に皺を寄せる。
 夢うつつのミカエルだったが、ハッと我に返るなり、急いでカマエル御前に跪くと、深く頭を垂れて敬虔した。
「失礼しました。お許しください」
 神妙な面持ちで謝罪したのだが──すぐに膝を折るのを終えて立ち上がると、ミカエルはカマエルと同じ目線に立った。
「ほぅ。そなたの敬虔は、それで終いなのか?」
 先ほどとは打って変わったようなミカエルの態度に、腕を組みながらカマエルがぼやくと、ミカエルは腰に手を添え、「堅苦しいだろ。お互いに」と笑った。
 カマエルは中級に立ち、天界の中でも“最強”と讃えられる戦闘能力を誇る≪
能天使≫。
 その“長”である彼は、実質『天界最強の戦士』である。
 対してミカエルは下級天使。人の世では最も有名であるが、実は下から数えて二番目の地位である―──。
 つまり、今のミカエルのカマエルへの無礼な態度は、本来ならば許されないものであるが‥‥?
「言葉を慎まれよミカエル殿。そなたはかつては最上級の≪
熾天使≫であったが、今は≪大天使≫であろう。我らの立場は逆である。気をつけよ」
 カマエルは、苦笑いを込め口うるさく忠告をしながらも、いつもいつも、口頭で注意するのみに留まっている。
 位は違えど、戦では共に闘う彼ら。互いの性格を知り尽くした仲だから‥‥と言ったら傲慢だろうが‥‥とにかく、“今更”という間柄なのだ。
 ミカエルの肩をポンと叩くと、カマエルは
天界の門に向き直り踵を返した。
 かすかな風が巻き起こり、くるぶしまで届く深紅のマントが風に揺れる。マントの中には、同じく深紅の甲冑が──。
 これから天を出て、悪魔とでも闘うのだろうか?
 彼の鎧と、≪能天使≫を表わすショールが、光を浴びて煌めいている。
 マントは勿論、腰まで届く艶やかな長い黒髪が風になびき‥‥彼の美しさと麗しさを一層引き立たせている。
 美の女神さえもたじろぐ程の美貌の持ち主であるカマエル。
 闘いの場では、彼の美貌・剣技・立ち居振る舞いに、悪魔は勿論、天使でさえも魅了されるという。
 かくいうミカエルも、まるで芸術品のようにカマエルを眺め、感嘆のため息をつく。
「‥‥何か言いたそうだな、ミカエル殿」
 マントを翻し、再びミカエルに向き直るカマエル。ほんの些細な動きさえ優雅で美しい。ミカエルは呆けたように、カマエルを見つめ続ける。
「すまんすまんカマエル。つい美しいお前に見とれていた」
 カマエルは、呆けたままのミカエルを鼻で笑っては、フフッと見つめ返す。
 そんな言葉を散々聞き慣れているカマエルは、特に気味悪がる事もなく、「たわけた事を‥‥」と腕を組んで宙を仰いでいる。
「カマエル。今から闘いに行くのか?」
「いや、いつもの巡回だ」
「巡回か‥‥でも気をつけろよ。何か有ればすぐに俺を呼んでくれ!お前の為、すぐにでも駆け付けるからな」
「‥‥ご忠告、ありがたく受け取ろう」
「なんだぁ。素っ気ないなぁカマエル」
(群れて闘う大天使が、我の何を心配するというのか‥‥)
 カマエルはミカエルをギロリと見据えて──。
「何度も言わせるな。我は能天使でそなたは大天使である。そなたが熾天使であった頃は、全ての者がそなたに跪いたが、今は違う。我への礼儀はわきまえよ」
 ミカエルは、カマエルの相変わらずな態度に、こう言葉を返してやった。
「俺は、お前のように堅苦しく位など気にはせんぞ。どんな位であろうが“俺はただの一人の天使”に過ぎない。その証拠に、俺が熾天使だった時も、俺はお前を“下”に見たりした事は一度もなかっただろう」
「‥‥確かにの。だが、そなたはそうでも周りが違う」
 カマエルは、髪をかき上げながら‥‥静かに呟いた。
「最高位に居ながらにしても飽き足らず、神の座までをも貪った天使‥‥言いたくはないが、そなたの兄・
ルシフェルの堕天を知る者の中には、今でも“位”に神経質な者もいるということだ」
 その言葉に、ミカエルは反射的に体をビクつかせた。苦悶の表情を浮かべ、腰に手を当て地を見下ろす。
 今までの明るさから一転。強く口をつむぎ、深く目を瞑った。
「落ち込んでおるのか?そなたらしくないな」
 図星をさされたミカエルは、大慌てで顔をあげると、動揺を見透かされないように必死に笑顔を取り繕った。
「そんな事はないさ。お前の忠告は、いつも痛いほど心に届くと思っただけだ」
 物言いこそ厳しいカマエルではあるが、彼は、ミカエルの事を誰よりも信頼し、誰よりも頼もしく思っている。
 大天使勢が悪魔に苦戦している時は、いつもカマエルが率先して加勢に出る。
 特に規律とかで決められているわけではないのだが、何故か隣にいる────居るのが“当たり前”なような存在だ。
 ミカエルの相棒・
ラファエルに並ぶほど、二人の信頼は非常に確かなものであり、ミカエルが悩みを抱えた時にはカマエルが相談役になるほど、お互いの存在はとても大きい。
「そなたの気持ちは分からなくもない。この場所は、そなたにとっても、我にとっても意味深き場所である。そなたの兄、ルシフェルが地へ堕ちた場所ゆえな」
「カマエル‥‥‥‥」
「そなたはここのところ、門前に立っては考え事をしておる。今のような泣きそうな面をしてな」
「‥‥気づいていたのか」
「見くびってもらっては困る。ここは他の奴らは滅多に訪れぬ場所だが、我は日に幾度もこの門をくぐる。その度にそなたがいて、いつも泣きそうな面で地を見つめていれば、不思議に思わぬもわけなかろう」
 カマエルは、位は違えど同じ“長”を預かる立場として、ミカエルの苦悩は痛いほど分かる。
 部下を束ねるだけが“長”の仕事ではない。『尊敬・敬虔・畏怖』の象徴になるのも重要な仕事なのだから──。
 ミカエルは、部下に心配をかけないように気を遣いすぎ、どんなに辛い時でも無理にでも明るく振舞う癖がある。
 ミカエルの損な性格は昔からだが、『聖戦』以降、彼は重い自責の念に捕らわれ続けている。
 何かを吐き出したいようなミカエルの瞳を見て、カマエルはとうとう堪えきれずに口を開いた。
「そなたのことだ。おそらくまだ、堕ちた兄のことを考えているのだろう」
「そ、そんな‥‥!」
 『そんな事はない』と言いたかったのに、カマエルの瞳に吸い込まれ、ミカエルは否定できなかった。
 彼の表情に、カマエルは「やっぱりな」と腕を組んで呆れてしまう。
 彼の煮え切らない性格に、苛立ちさえ覚えてくる。こうなったら、彼の胸の内を自分が代弁してやるほかない。
「そなたは今、こう思っておる。俺はなぜ、兄を救えなかったのだろう。選択肢が違えば、救えたかもしれんのに‥‥」
「そんな事、俺は‥‥」
「堕とす以外に方法があったはずだ。俺が兄を説得するべきだった。俺がしっかり監視していれば防げた。あるいは──」
 ミカエルが拳を握り、小さく震えているのが分かったが、カマエルは無視して代弁し続けた。
権天使が神に報告した段階で、ルシフェルの手を引いて逃げだせば良かった。共に堕ちておれば良かった。さもなくば‥‥神を蹴落とし、愛しい兄を神の座に──!」
「黙れカマエル!!」
 ミカエルは、たまらずカマエルのショールを掴みにかかった。

天使や悪魔の小説を書くと、決まって「キリスト教徒」なんですか?と聞かれますが‥‥全然違います。
歴史好きの『歴女』に似た──ただの“趣味”です
信者の方には怒られるかもしれませんが、私にとっては、天使も悪魔も──聖書も(笑)、壮大な『SF映画』として観ています(^^)。

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