『堕天の園』 2 水面が、ミカエルの叫びに反響するかのように、微かな波紋を浮かべた。 カマエルは、息を荒げるミカエルの形相に顔色一つ変えず、彼の腕に手を置き───── 「手を放されよ────ミカエル殿」 我に返り、ミカエルは慌ててカマエルを突き飛ばした。 天使とは思えぬ冷徹なカマエルの瞳に、一瞬だけだが背筋に悪寒が走った。 ミカエルは、その場に深くひれ伏し、何度も謝罪した。 あろうことか中級天使に掴みかかり、更には手を挙げそうになってしまった‥‥。自分の犯した行動が信じられない。 「まぁ良い、我も悪かった故な。“神の座”というのは言いすぎだった。だが‥‥それ以外の事はどうだ。考えておったのか?」 無言のままのミカエルから目を逸らさず、カマエルは崩れた自身のショールを、淡々とその身に整えた。 「我が申した点については、そなたはいずれも考えてはならぬ。ましてや『共に堕ちればよかった』など──決して思ってはならぬ」 (カマエル‥‥) 「そなたの責ではなければ、神に報告した『権天使』でもない。あやつ自身が神に背を向けたのだ」 「────あぁ」 「我ら天界人は、清き存在であるが故に、魔の心と向き合う事は許されぬ身だ。改心させようと思えば傲慢になる故、我ら天界人は、臨んで“魔”を改心させることは行わぬ」 「“魔”の話を聞いて同調し、“負”の心を自身の内に取り入れてはならない‥‥‥‥か」 ミカエルは、拳を握り締め胸に抱くと、自身に言い聞かせるように深く呟いた。 その仕草に、カマエルは小さく微笑み、彼の拳に手を添えて──。 「お強くあられよミカエル殿。そして、そなたよりも心を痛めておられる方がいること、しかと心得よ」 カマエルは、そのまま宙を見上げた。 「あのお方は、そなたよりもお心を痛めておられる。そなたが兄を堕とした瞬間を、空より見下ろしておいでだったのだから──」 すぐに誰だか分かった。 「エリシスのことか?」 ──カマエルの美しい瞳が、一瞬だけだが、軽蔑を含んだ眼差しに変わった。 いくらエリシスが“エル”の名を持たぬ“民”とはいえ、上級位の≪智天使≫を“呼び捨て”するなど言語道断である。 警告する意味を込めて、カマエルはワザとらしく咳ばらいをしたのだが‥‥これ以上言っても無理だとため息をついた。 しょうがない。ミカエルは、そういうヤツなのだ。 カマエルは、ミカエルに縋るような顔を見せて話し始めた。 「聖戦が過ぎてからも、我は幾度もあのお方にお会いした。だがいつも、ご挨拶を交わす程度で、それ以上は──。我にお心を開いてお話はして下さらぬ。“天界最恐”と謳われる能天使に相談する天使などおらぬ故、致し方の無いことだが‥‥」 カマエルは少し悲しそうに、憂いを込めた目を見せ──。 「だがそなたは違う。“位”にとらわれず、エリシス様と同等の立場で話し合う事もできるだろう。エリシス様は、そなたが来るのを一日千秋の思いで待っておられる‥‥。それなのにそなたは──!」 ミカエルの目が一瞬‥‥‥‥揺れた。脳裏にエリシスの姿がちらつく。 智天使の“民”であるエリシスを戦に引っ張り出したのは、他でもない俺だ‥‥。 聖戦の後もエリシスは、兄を蹴堕とした俺を心配し、絶えず気遣ってくれた。 「あの方には、そなた以外に頼る者はおらぬのだぞ」 そうだ。智天使はもともと戦とは無関係の地位である。エリシスには、胸の内を吐き出せる相手が誰もいないのだ‥‥。 天界一、知恵に富み、天界唯一の軍師であるとは言え、彼が持つ心は、他の皆と同じように儚くて繊細で‥‥‥‥。 体が熱い‥‥体中が沸騰し熱くなっていき、息を吹き返してゆく。 自分の身の内で休んでいた全てのものが目覚めるような心地になった。 大丈夫‥‥もう大丈夫だ。 「ありがとう。楽になったよ」 ミカエルは、カマエルの目を見ながら笑った。 「ひょっとしたら俺は、誰かに話を聞いてもらいたかっただけなのかもしれん」 「そうか。それは良かった」 ミカエルの晴れやかな顔を確認するなり、カマエルは滅多に見せない満面の笑みを浮かべた。 「おお、やはり美しいなぁお前は。お前と共におるとこちらまで美しくなれる気がする」 顎に手を添え、照れもせず言ってのけるミカエルにカマエルは、 「たわけた事を言わず、早くエリシス様の下へ参られるが良い。あのお方は、そなたを待っておいでだ。早く行くがよい」 若干怒りのこもった物言いに、ミカエルはカマエルの肩に馴れ馴れしく左腕を乗せて‥‥ 「カマエル、だからお前はダメなんだよ」 チッチッと、ミカエルがキザっぽく指を振った。 「その言葉遣いと態度が、他の者達には怖いんだよ。俺の部下もよく言ってるぞ。「カマエル様は、素っ気無くて怖い。近寄りがたいー」って」 この言葉には、さすがのカマエルも怒りを覚えてしまったらしい。 「そなたには関係なかろう!この手を離されよミカエル殿。侮辱として咎められても何も返答できぬぞ!」 「ったく、顔はすっごい綺麗なのに勿体ないなぁ〜。ひょっとして悪魔の言葉が移ったのか?何なら俺が直してやってもいいぞ」 カマエルは、カッとなってミカエルの腕を強引にねじ伏せると、 「たわけたことを‥‥。誰も傍に寄らずとも構わぬわ。我はこの言葉を直すつもりもない!」 「‥‥さみしくないのか?」 叱られた子犬のようなミカエルの瞳に、カマエルは静かに‥‥‥‥自分を正すように言った。 「能天使は単独行動が原則。そなたらのように群れて動く事など元よりできぬ。そなたも能天使になればわかるであろうがな」 カマエルは、これ以上構ってられんと天界の門を開いた。 鮮やかな外の光が漏れ、天界の風が門をくぐり抜けてゆく。 カマエルの髪が一層なびく。ほほ笑み、しなりと佇む姿は女神のように麗しく、『天界のプリンス』と謳われるミカエルでさえ、引き立て役のようであった。 「そなたのせいでとんだ時間を食った。巡回とは申せ、悪魔が現れたら何とするか!」 これから、単独で天の狭間に赴く能天使。巡回する以上は、悪魔と出くわすことだってある。 しかし、恐れず臆することなく単身で乗り込んでゆく彼の偉大さに、鳥肌に似た‥‥強大な“畏怖”の念が立ち昇る。 『そなたも能天使になればわかる』 その一言は────あまりにも重く感じられた。 そして、自分はとてもじゃないが、そんな器じゃない。彼のようにはなれないことも同時に悟った。 「お気をつけて‥‥。つつがなく、安穏のままにて戻られますことを祈っております。いってらっしゃいませ」 ミカエルは、ごく自然にカマエルの御前に跪き、いつもは絶対口にしないような殊勝な言葉を吐いていた。 頭を垂れるミカエルの脇を、カマエルが無言のまま通り過ぎてゆく──。 マントを大きく翻した動作に、ミカエルはニコリと微笑んだ。 カマエルの、物言わぬ“感謝の言葉”である。 「チェッ、素直じゃねぇヤツだなぁ」 ミカエルは、彼が飛び立つ姿を笑顔で見送ると‥‥踵を返して天内へと戻っていった。 エリシスに会うために‥‥。
群れて行動する大天使とは違い、能天使は単独行動が基本。戦闘能力においては、能天使は大天使よりも優れている。
階級は関係なしに、誰とでも仲が良いミカエル。対して、階級重視なお堅いカマエル。 ※この話はBLではありませんし、ミカエルとカマエルは決してホモではありません! 天使は慈愛の象徴であり、その愛には老若男女の隔ては存在しないのです。 カマエルは、小説内でも取り上げましたが、見目麗しく、彼の剣技・立ち居振る舞いに悪魔はもちろん、天使でさえも魅了されるほどである。しかし一方で、“血のカマエル”と称されるほど、彼はおぞましく‥‥(詳しくは天界用語で) |