『銀の天使』 1


   魔界    .

 深い深い闇の底に、この世界は存在する。
 魔界には、この地に住まう民の家々が立ち並び、その家々の全ては、まるで崇めるが如く、ある一点の方向を向いている。
 その視線の先には、ひときわ大きくそびえ立つ“漆黒の塔”が建っている。万魔殿である。
 万魔殿には、東西南北、4つの塔が並び立つ。
 東塔は、地位の高い悪魔たちの住居。
 北・南塔は、政治に携わる悪魔たちの居住スペースや、働きの場。
 西塔は、ほぼ全ての部屋が、帝王の所有スペース。そして更に、この西塔の最上階は、帝王と側近の者以外、入る事は許されない。

「ふわぁぁ‥‥」
 物音一つしない部屋に、欠伸の音が響き渡る。
 読み途中の本を片手に持ち、天井に悠然と下がるシャンデリアを、眩しげに見つめる。
「退屈じゃ‥‥」
 かれこれ1時間程前から、ルシファーは、欠伸と独り言を何度も繰り返している。
 ここの所、退屈な日々が続いている。
 別に、趣味が無いわけではない。
 ただ、ルシファーの趣味は、1人で、かつ一朝一夕で行える物ではない為、今のルシファーは、趣味がないのも同じだった。
 天界にいた頃は、平凡で退屈な日常から抜け出したかったものだ。
 神の位、全ての者の頂点に立てば、誰かの手によって使い引きまわされる事も無く、かねてからの念願であった、天界全土を我が手中に掌握でき、平凡な退屈から開放される‥‥そう思っていた。
 堕天し、悪魔になって百余年が過ぎた頃、世界こそ違うが、ルシファーは頂点の地位に立ち、悪魔の帝王となった。
 そしてそれから数年‥‥
 ルシファーは、相変わらず今も退屈な日々を送っていた。いや、もしかしたら今の環境の方がもっと退屈なのではないだろうか?
(口惜しい。一体、我が望みの全てはいつ手に入る?)
 軽く舌打ちをしながら、ルシファーは椅子から立ち上がると、チラリと窓の外に目をやった。
 休憩時間なのだろう。獄吏たちがより集まり、何やら談笑をしている。
 楽しそうな顔をし、時折笑みさえ浮かべる獄吏達。
(フッ、獄吏どもの方が充実しておるようじゃな。‥‥羨ましいことじゃ)
 全てにおいて自由である帝王の位とは対照的に、下級位の獄吏達は、朝から晩まで過酷な労働を課せられている為、自由が殆ど無い身分である。
 それなのに‥‥なぜ笑えるのだろう?どうして自分より充実した時を過ごす事が出来るのだろう?
 ルシファーは苦い顔をし、窓に掛けられていたカーテンを乱暴に閉めた。
 ルシファーがどんなに獄吏を羨んでも、答えなど出る筈はない。どんなに獄吏を見ていても、自分の暇を持て余す良い案が見つかるわけでもない。
 今日はまだ、昼も終わってまだいかばかりか‥‥?1日の終わりはまだまだであろう。
(さて、今日という日をどう過ごそう)
 ルシファーは、椅子に腰掛け、肩肘を付いて考えた。
 暫くの間悩んでいると、ルシファーは、自分の部屋へと向かって進んでくる足音の存在に気づいた。
(我の傍仕えか?いや、しかしそれにしては、あやつのとは歩調が異なる)
 その足音は、ルシファーの部屋の前でピタリと止まった。
「誰じゃ!」
 ルシファーは、ドアを睨み付けて尋ねた。
 すると、部屋の外に立つ足音の主が、こう応えた。「バールベルトにございます」
 ルシファーの眼光が鋭く光った。
 この塔の最上階は自分と側近の者達しか入る事が許されない。勿論この決め事は、ルシファー自らが定めた法なのだが‥‥。
 法を承知で土足でこの塔の最上階に立ち入ったバールベルトに、ルシファーは激しく苛立った。
 しかし‥‥危険を犯して足を踏み入れたのだから、何か相当な理由が有るのだろうか?
 ルシファーは煮えたつ苛立ちを必死に抑え、静かに尋ねた。
「何用じゃ」
 ルシファーの問いにバールベルトは、「ルシファー様のお部屋への入室をお許し願いたいのですが‥‥」と応えた。
 カッとなったルシファーは椅子から立ち上がり、バールベルトの言葉を遮るように、手に持っていた本を、ドアに向かって思い切り投げつけた。
「たわけが!この塔の最上階は、我と側近の者しか入れぬ場所。そこに土足で入っておきながら、飽き足らずに我の部屋に入ると申すか!?無礼者め」
 ドアに向かって勢いよく叩きつけられた物音に、一瞬バールベルトは怯んだが、臆することなく話し続ける。
「無礼は重々承知の上。お叱りも、元より覚悟の上でございます」
「無礼も覚悟も承知で、何故塔に入ろうとする!?」
「はい。是非とも、ルシファー様にお知らせしたいお話がございまして」
(話じゃと?)
「話など、我の傍仕えにでも伝えておけ。後で聞き伝えてもらう。分かったら早々と帰れ」
 だが、バールベルトは「しかし‥‥是非とも‥‥」と、食い下がらない。
(こやつ。帰らぬのか。全く‥‥我にどんな話があると言うのじゃ)
 そこまで話したいという『話の内容』に興味を持ったルシファーは、ドアの外のバールベルトに一言。
「そなたごとき者が、我に知らせたい話というのは一体何じゃ?」
 耳を傾け始めたルシファーに、バールベルトは「しめた」と思った。
「恐れながら、お話はルシファー様のお部屋の中で‥‥他の者にはまだ知られるわけには参りません。いえ‥‥知られたくないというのが本心です」
 そう告げてルシファーの興味を引かせ、「私のお話を聞いて、決して損はございません。むしろ、ルシファー様にとって、大きな“利”があるかと存じます」と、自慢げに語った。
 すると、今まで怒り浸透していたルシファーの気が180度変わった。
『自分に利がある』とあらば、それは聞かずにはいられない。ルシファーの欲の深さがここにあった。
(面白ければ儲けじゃ。もしつまらなんだら、その時はバールベルトを咎めれば済むだけの事。暇つぶし程度に聞いてやるか)
 ルシファーは、指を鳴らし、バールベルトの入室を許可した。

 バールベルトは、部屋に入り一礼し、帝王の椅子に腰掛けるルシファーの前で深々と跪いた。
「入室は許したが、事と次第によってはそうはゆかぬ。この塔に無断で入り、更に土足でこの部屋にまで踏み入ったのじゃ。つまらぬ用件では只ではおかぬぞ」
 ルシファーが、跪くバールベルトを見下ろし、そう冷たく言い放つ。
 バールベルトは再び深く一礼をし、静かに話し始めた。
「一武将が、先ほど天使を一匹捕らえました。現在、東塔の地下牢にて幽閉中でございます」
 さぞ面白い話かと期待していたルシファーだが、話を聞いた途端顔を曇らせ、「なんじゃ。何かと思えばそんな話か」とガクリと肩を落とした。
 『天使が悪魔の手に堕ちる』事は、魔界では大して珍しい出来事ではない。何せ、彼ら悪魔達の楽しみであり快楽は、“天使を捕らえる”という事だからだ。
 美しい天使や地位の高い天使が捕らえられると、悪魔たちは宴を開き、捕らえた天使達の品評会を開き、時によっては競売も繰り広げる。
 ルシファーも自分の側近の中に、以前武将筆頭が捕らえた天使を数名程、側に置いている。
 そう、天使は決して珍しい存在では無いのだ。
「たわけ。たかが天使一匹捕まえたぐらいで大した手柄にはならぬわ。その天使を捕まえた武将にも、それだけで驕るなと伝えておけ」
 ルシファーがそう言って溜息を付くと、バールベルトはニヤリとほくそ笑みこう続けた。
「ええ。確かに天使自体は対して珍しいものではないのですが‥‥なんとその捕らえられた天使、『智天使』にてございます」
 『智天使』と聞き、今まで憮然としていたルシファーの目の色が変わった。
「ほう?上級の天使を捕らえたと‥‥。ということは、天界に行って捕らえて参ったのか。たかが一武将が天界に出向いて、よく無事に戻ってくる事が出来たな。危険を犯して天界に参った事は、誉めてやろう。その武将とやらに、なんぞ褒美なり地位なりを与えてやるがよい」
 するとバールベルトは、武将が天使を捕らえた場所は、“天界では無い”と伝えた。
「天界では無いと?上級天使を天界以外のどこで捕まえると言うのじゃ?」
 ルシファーは、不思議そうに身を乗り出して聞いた。
 バールベルトは先ほど、魔界に帰還したばかりの武将を見かけた。
 声をかけると、武将は「天使狩りに行っていました」と言い、見れば、神々しく見目麗しい天使を引っさげていたので、一体どんな天使かと目をやったら、その天使は、智天使の紋章が刻まれているショールを身に着けていたのだ。
 武将に、「智天使など、一体何処で捕らえたのじゃ?」と聞いた所、何と地上で花摘みをしていたところを狩ったというのだから、バールベルトは非常に驚いたのだ。
「智天使が地上におったなど驚きじゃ。知恵の立つ天使の事。どうせ人間世界を覘こうとして地を踏んだのであろう。“智”のくせに、誤った判断をしたのぉ。フフフ‥‥いい気味じゃ」
 ルシファーは足組みをしてニヤリと笑った。
 上級天使が捕らえられたとなれば、天界は大騒ぎになるだろう。『エル』の名を持つ天使ならば尚更‥‥
「して、その天使の名は何じゃ?」
 すると、バールベルトは顔を上げ、得意げに‥‥
「『エリシス』にございます」

「──エリシスじゃと!?」
 驚きのあまり椅子を蹴って立ち上がったルシファーを見て、跪いていたバールベルトは思わず体勢を崩し、後ろにのけ反った。
「バカを言うのはよせ!あやつが人間界に降りるわけがなかろう!名前など‥‥大方、血迷った天使の戯言であろう。そなた、今一度確認してまいれ!」
「ルシファー様。“エリシス”という天使をご存知なのですか?人間界に降りるはずが無いとは‥‥もしや、そやつの行動に何か確信でも?」
 バールベルトはルシファーに問い返した。
 するとルシファーは、蹴った椅子を自ら立て直しながら、「あやつは‥‥天界一知恵の立つ、天界唯一の“軍師”だからじゃ」と、小さく呟いた。
「あやつは、口惜しいが天界一頭の良い奴じゃ。用心深いゆえ、例え人間界に降りる事があっても、決して地上は踏みしめぬ。そんな奴が、いともアッサリ悪魔に捕まるものか。そなた、人違いではないのか?」
「しかし‥‥」
 バールベルトは、後ろ手に隠していた、エリシスというから天使から奪い取った装飾品をルシファーに見せた。
「こちらは、エリシスという天使が身に纏っていたショールに刻まれていた紋章。『智天使』の紋がございました。そして‥‥」
 バールベルトは立ち上がると、ルシファーの目の前まで歩み寄った。
「天使には、それぞれ『シンボル』が有ると聞き及んでおります。どうぞ、奴が持っていた『シンボル』にございます」
 バールベルトが見せたのは、『銀の旗』だった。間違いない。確かにエリシスのシンボルだ。
「天界で、あやつが自慢げに振っていた旗じゃ‥‥。我に見せよ」
 ルシファーは、バールベルトの手から銀の旗を奪い取ると、その旗を片手に構え、手荒に振り下ろした。
 バサッ‥‥バサッ‥‥空を切る軽快な音。旗の背上に付いている鈴の音色と混じり、何とも不思議な音色が部屋中に響き渡る。
「ほぉ。天界で見たときは、子供の玩具程度の旗と思っていたが‥‥天使のシンボルだけの事は有るわ」
「どうぞこちらの品も、ルシファー様のお宝物の中にお加え下さいませ」
 バールベルトの勧めどおり、この旗も自分の宝物にしようと思っていたルシファーだが、「いや‥‥」と怪訝な顔をし、銀の旗をバールベルトに返した。
「何故でございます?ルシファー様は、天使のシンボルを収集なさるのがお好きでございましょう」
「そんな胸くその悪い旗。我は要らんわ!」
(いつもなら、天使のシンボルとあらば、どんな些細な品でも我が物にするルシファー様なのに‥‥)
「そうですか。不要ならば仕方ありません。勿体無いですが、これはお捨て致します。ところでルシファー様、どうせお捨てになるのであれば、この旗、エリシスの目の前で燃やしてやりましょうぞ」
「おい待て。誰が“不要”だと申した?旗は捨てぬぞ」
 早々とルシファーの部屋を退出しようとしたバールベルトの背中を、ルシファーが呼び止めた。
「は?」と、バールベルトが振り返る。
 立ち上がったルシファーは、バールベルトの持つ旗を指差して一言。
「その旗、エリシスを捕まえた武将にくれてやるがよい」
 思いがけないルシファーの言葉に驚いたバールベルトは、思わず「何故です?」と尋ねた。
「憎きエリシスのシンボルなぞ、我は持ちたくは無い。じゃが‥‥我はその旗を使って面白い事を思いついた」と、旗を睨み付け、ルシファーは鼻で笑った。
「‥‥ったく。この旗を見たせいか、天界でのエリシスの事を思い出してしまった‥‥。数百年余りの時が過ぎたというのに、我の天界での記憶は消えぬ。記憶と言うのは何とも厄介なものじゃ」
 コメカミに指を添え、困ったと首を振っているルシファーの姿をみて、バールベルトは『エリシス』という天使が、天界でどう過ごしていたのか、とても興味が沸くのを覚えた。
 というのも、地下牢でエリシスの姿を見たとき、何か不思議に心惹かれるものが有ったからだ。
 自分は捕らえられた身というのに、怯えるような素振りは一切見せず、牢の外で見下すバールベルトの瞳を、一時も反らすことなく、エリシスはずっと見つめ返していた。
「私をどうするつもりだ?」と聞くエリシスに、ただバールベルトはこう応えた。「全ては帝王の御心のままじゃ」と。
 『帝王』という言葉を聞いて、エリシスの顔が一瞬曇った。
「私は帝王の手にかかり殺されても構わない。捕らえられた時点で覚悟はもう決めている」
「それはそれは‥‥さすがは上級天使殿。潔いご決断ですな」
 天使の美談など聞きたくもないと、踵をかえして牢を後にしたバールベルトは、背後から絶叫に似たようなエリシスの叫び声を聞いた。
「帝王に伝えよ!私を利用し、天界へ復讐はするのだけは決して許さぬ!」

 今思えば、エリシスは、ルシファー様が魔界の帝王になっていたのを知っていたのだろうか?そんな気がしてならない
「ルシファー様!」
 バールベルトは、その場に深々と頭を下げ、スッと跪く。
「恐れながら‥‥伺いたい事がございます。ルシファー様にとって、この度捕らえられたエリシスとは一体何者なのですか?」
(ルシファー様はエリシスを憎んでおられる。こんな事を聞いたら‥‥ルシファー様のご機嫌次第では、私はこの場で殺されかねない)
 それでもバールベルトは、ルシファーにエリシスの事を聞かずにはらいれなかった。『聞きたい』という興味のほうが、ルシファーの畏怖の域をはるかに超えていた。
 ルシファーは、暫く窓の外を見て考え事をしていたが、思い立ったように、重い口を開いた。

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