『銀の天使』 3
── 東棟 ── 地下牢へ続く長い螺旋階段を、三人の悪魔は降りていく。 バールベルトは松明を右手に持ち、ルシファーの前を歩いた。 獄吏のドゥマは、ルシファー達の数メートル前を歩いていた。バールベルトと同じく、彼も松明を右手に持っていた。 しかし、ドゥマの松明は柄が長く、足元を照らす目的のものとは異なっていた。 踊り場で分かれ道に差し掛かると、ドゥマはその松明を右へ左へと傾けた。それは目印代わりの松明だった。 後続のルシファー達に合図を送り、ドゥマは順路を辿る。 長い階段を渡り終えた時、ルシファーの足がピタリと止まった。 「ルシファー様、いかがなさいました?」 振り向いて様子を伺うバールベルトを、ルシファーは乱暴に押し退け、独り走り出した。 「ドゥマ!」 ルシファーの予期せぬ行動に驚いたバールベルトは、思わず前方の獄吏を呼んだ。 こっちに向かって走ってくるルシファーに気づいたドゥマは、慌てて松明を差し出したが、ルシファーは構わずドゥマの横をすり抜け、突っ走った。 「フンッ、そんなの要らぬわ!」と、捨て台詞を吐いて────── バールベルトとドゥマは、ルシファーの姿を見失わぬよう、必死に後を追った。 二人は、ルシファーの背中を追いながら不思議がった。 暗闇の中だというのに、ルシファーが道に迷っている様子は全く無かった。分かれ道に差し掛かっても躊躇せず突き進み、エリシスが囚われている牢の順路を、正確に辿っていたのだ。 まるで、目には見えない松明を、煌々と頭上に掲げているかのようだった。 (なぜ、牢の場所が正確にわかるのだ‥‥!?) その理由は、彼らには決して分からないだろう。かつて天使だったルシファーだけが感じ取ることのできる何かが、そこにはあった。 暗闇の中、一筋の光が見える。聖なる光──温かく清らかな光。地下牢は錆びた鉄とカビの臭いが充満しているが、奥からは、太陽の匂いに似た──朝露に濡れた若葉の匂いが、乾いた風に乗って香るのだ。 天界にいた頃の懐しい香りが、この奥から漂ってくる。ルシファーは、子供のように笑い、その香りのする方へと走った。 一つの牢の前で、ルシファーの足が止まった。柵を掴むなり、感極まってため息が自然に漏れた。探していた宝物をやっと見つけた時の感覚が蘇り、体中に鳥肌が立った。 そこには────エリシスがいたのだ。 三畳程の個室牢。エリシスの右足には鎖付きの枷が繋がれ、鎖の先は壁に打ち付けれていた。 「そなた‥‥エリシスじゃな」 息を荒げながら、ルシファーは天使に聞いた。 「お前は誰だ‥‥?」と、エリシスが答えた。 「無礼な!」 エリシスの言葉を遮るように、背後から低い声が響き、ルシファーは後ろを振り返る。 やっとルシファーに追いついたドゥマが、叫びながら、ブレーキ代わりに牢の柵を足で力任せに蹴った。そして、いますぐ発言を撤回するよう、エリシスに詰め寄った。 バールベルトもドゥマ同様、エリシスの発言に怒りは感じたものの、ドゥマと同じ行動には出なかった。 天使が悪魔に無礼だというのは分かりきっている事だ。それなのに、逐一の発言に怒り、暴力を働くのは徒労である。 (チッ、血の気の多い野蛮な奴め‥‥) バールベルトは、ドゥマを横目で軽蔑した。 「ドゥマよ‥‥もう良い、下がれ」 バールベルトはドゥマの怒りを静めると、エリシスを冷たく見下ろすルシファーの真横に立った。 「エリシスよ、我の右手にいらっしゃる方こそ、我らが“サタン”──ルシファー様じゃ」 「‥‥サタン?──────ルシファー!?」 「エリシス‥‥我らが尊いお方の顔を拝するが良い」 エリシスが、ルシファーの姿を見ようと顔を上げた。だが彼の目の前には、ぼんやりとした影が立っているだけだった。必死にルシファーの姿を見ようと身を乗り出し、目を擦り、柵を握り締めるエリシスを、ルシファーは無様だと、嘲笑った。 「フフッ、天使殿は光に住まいし者。闇に居過ぎて、眼が利かなくなったか?どれ──これでどうじゃ」 ルシファーはドゥマから松明を奪い取ると、そっと自分の顔を照らした。 エリシスの瞳が見開いた。松明の中、はっきりと、ルシファーのその姿をこの眼で確認した。 「ルシフェル!」 一目でルシファーだとわかった。風貌は悪魔であったが、その顔は、今でも変わらず、ミカエルと瓜二つであったから──。 天界で、ルシフェルと呼ばれていたルシファー。双子の弟:ミカエルと共に天界を護り、誰もが敬虔する、輝かしい宵と明けの明星‥‥。 そのかつての面影はどこにも無く、彼の体から発せられる気は、禍々しい悪魔の毒気だった。 自分たちの目標としていた者の末路。天界を護る輝かしい双子のように──いつか自分もそうなりたいと、切に願っていたのに‥‥こんな──。 エリシスの首がガクリと垂れた。床を一点に見つめ、ただただ落ち込んでいるエリシスの姿を見て、さらにルシファーは、してやったりと追い討ちをかけた。 「バールベルト。例の物をこやつの前で翳せ」 バールベルトは、腰の後ろに隠してあった銀の旗を、エリシスの前に翳した。 鈴の音が鳴り、エリシスはハッとして顔を上げた。 「それは‥‥!」 「そうじゃ。この旗は、お前がこれみよがしに振っていたものじゃ」 バールベルトが、銀の旗を手荒に振る。幾重にも連なった鈴の音が、地下牢に鳴り響く。 「この旗を見ると、あの頃を思い出す‥‥のぅエリシスよ」 エリシスは、額にうっすらと汗を浮かべた。 「貴様は『智』の“民”でありながら、我を犬のように扱い、連れ引き回したのだから‥‥」 そう言ってルシファーはエリシスを怯ませるつもりだったが、エリシスは怯まず、臆する事もせず、逆にルシファーに強く言い放った。 「旗は神より与えられた。上級の者に命を下す許しも、それは全て神より賜りしものだ!」 この発言には、さすがのバールベルトも怒りを隠す事は出来ず、噤んでいた口をついに開いてしまった。 「何と無礼なことを‥‥口を慎まぬか!」 バールベルトが、旗を手に持ったまま、エリシスの襟元に手を伸ばした。 柵内に手を入れて伸ばした瞬間、バールベルトの足元は──死角となった。 エリシスはその一瞬の隙を見逃さなかった。体勢を低くし身を屈め、バールベルトの死角に腕を突き出し、グッと旗に手を伸ばした。 「バールベルト!」 ルシファーが気づいた時には遅かった。旗の先端部分が、エリシスの人差し指に微かに触れたのだ。 「ギャッ!!」 あまりの激痛に、たまらずバールベルトは持っていた旗を放り出した。 バールベルトは旗を柵に向かって放ったが、旗の柄は柵に当たり──牢の中までには入ってこなかった。 しかし‥‥エリシスがもう一度手を伸ばせば‥‥‥‥触れられる距離にある。 (くっ‥‥まずい) ドゥマは、エリシスを腕力で押さえつけようと柵に触れた。その時──小さな閃光が走り、ドゥマは手に火傷を負ってしまった。 ほんの一瞬ではあったのだが‥‥旗は鈴を鳴らしてエリシス‥‥そして柵に当たった。それは云わば──エリシスが旗を振り、柵に当たり、それによって柵が僅かながら清められた事を意味していた。 ルシファーは、旗を手に取れとバールベルトに命じたが、バールベルトは恐怖で体が萎縮してしまい、命令には従えなかった。 仕方なく、今度はドゥマに命じたが、ドゥマも手に火傷をした身──バールベルト同様、命令には従わなかった。 『帝王の命に背くのは大罪』。ルシファーが、ここで自分の命令に従わなければ罪を課すと脅しても、「出来ない‥‥!消滅などしたくない!」と、二人はひたすら叫び続けるだけで、ルシファーの命令には従わなかった。 天使の手から離れたシンボルに触れただけでは、悪魔は消滅などしない。天使と何度も戦を交えたルシファーは、それを知っている。でも──自分は取りたくなかった。理屈では分かっていても、もしかしたら‥‥と思うと、とても取る気にはなれないのだ。 もしもの事が遭っては困るから、配下に取らせる‥‥。苛つきながら、旗を取れと再三に渡り命じるルシファーに、「ならば、ルシファー様がお取りになればいい」。下っ端の獄吏ドゥマは、ルシファーに向かってそう反論してしまった。 「き、貴様‥‥誰に向かって──!」 ルシファーがドゥマの首根っこを掴んだ瞬間、耳を劈くような音が地下牢に鳴り響き、悪魔達は堪らず耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んだ。 |