『銀の天使』 4

 嫌な予感がした。ルシファーが横目をやると、足元に落ちていたはずの旗が消えていた。
(まさか‥‥)
 しゃがんだ姿勢のまま、恐る恐る顔を上げる。なんてことだ!エリシスが右手に旗を持っているではないか!
 ルシファーは、片手で耳を押さえながらも気丈に体を起こした。だが、膝が震え、思うように動けない。
 ルシファーが身動き取れない間に、エリシスは旗の柄を牢に当て、祈りを唱えた。すると、個室牢の壁は銀の砂と化し、鉄柵もろとも乾いた風に乗って舞い散った。
 これでエリシスは、もう囚人ではなくなった。旗も取り戻した。事態は、一気に形勢逆転となった。
「エリシス‥‥!」
 ルシファーが、猫のような目でエリシスをキッと睨む。
 エリシスは、その場に崩れて蹲るルシファーをじっと見つめていた。エリシスは、悪魔に捕らえられ、怒りを感じているはずだ。しかし、彼がルシファーに向けた目は、深い哀れみだった。
 旗が生み出す風を針の雨と感じ、鈴の音を雷鳴と聞く‥‥それは、ルシファーが身も心も悪魔そのものである紛れもない証拠だった。
 エリシスは、堅く目を瞑った。
(私の目の前に居るのは、かつての輝かしい熾天使ルシフェルではない。悪魔の帝王・ルシファーだ!)
 エリシスは、自分にそう言い聞かせた。
 つい先ほどまでエリシスは、ルシファーの中にルシフェルを重ねていた。ルシファーが自分と接する事で、彼の中の天使の心が戻らないだろうか‥‥改心してはくれないだろうかと、強く願っていた。
 牢獄に閉じ込められ、見下されていても、かつての輝かしいルシフェルの姿が、ルシファーの影にちらついて離れなかったのだ。
 しかし‥‥‥‥今、それは無意味と悟った。
 エリシスは、深くため息をつき、自身が持つ旗をギュッと握り締めた。そして、決意に満ちた目を見開くと、旗を頭上に掲げ──────手首を回して旗を回転させた。
「おぉ‥‥その旗降りは‥‥」
「かつて天使だったお前なら知っているだろう。これは大天使を呼ぶ合図だ。すぐに彼らは駆けつけてくるだろう」
 エリシスの張り上げた声は、この牢獄内に留まらず、階下に住まう“民”にまで高々と響き渡った。
「やってくる‥‥!天使どもがやってくる‥‥!!」
 ドゥマが頭を抱えるのと同時に、エリシスは一目散に牢の出入り口へと向かった。
 ルシファーは、エリシスを捕まえようと追いかけたが、牢獄で働く獄吏達や、階下の“民”がパニックを起こして、辺りは押し合い圧し合いになり、全く身動きが取れなかった。
「誰か‥‥エリシスを捕らえよ!」
 ルシファーはそう叫んで近くの配下に命じたが、誰一人として聞いてはいなかった。聞くどころか、エリシスを逃がさぬよう、先回りして出口に立ちはだかるルシファーを、獄吏たちは巨漢で薙ぎ払い、突き飛ばしたのだ。
 突き飛ばされ、地面に叩きつけられたルシファーの横を、獄吏達が我先にと逃げていく。そして──────獄吏に紛れ、ついにエリシスも!!
 エリシスはこうなることを狙って、わざと声高らかに叫んだのだ。
 悪魔にとって、一番大切なのは“自分”。自身が危険に陥いれば、帝王の命も‥‥その存在すらも踏みつける‥‥何と浅ましいことだろうか──。
 エリシスは迷路のような牢を無事脱出し、地上へと上がる途中、自分を捕らえようとする者に何度か出くわした。天使狩りを快楽とする武将や、公爵達である。
 武将や公爵目掛けて、エリシスは旗を夢中で振った。鈴の音は、彼らの脳髄を掻き乱し、切る風は針となって降り注ぐ。
 しかし、何度も降っているうちに、旗の効力は徐々に弱まっていった。
 エリシスの息は乱れ、足は縺れて何度も転んで地に這い蹲る。悪魔の毒気は、確実に彼の体を蝕んでいた。
 そんな体で、悪魔だらけの地獄を、力を使いながら疾走すれば、相当堪えるはずだ。
 やっとの思いで地獄を抜け出し地上に出ても、悪魔は執拗に追いかけてくる。
 地上は雨が降っていた。地面を這うように走り、気力を振り絞り術を唱えて旗を振る。
 途端に雨が止み、雲の切れ間から、暖かな太陽がエリシスに降り注いだ。
 エリシスは走りながら純白の翼を広げ、強く地面を蹴った。翼を羽ばたかせるものの、つま先がなかなか地面から離れてくれず、上手く風に乗ることが出来ない。
(暫くここに留まり、太陽の恵みを浴びて休もうか‥‥)
 後ろを振り向くと、剣を腰に装備し、武将らが追いかけてくるのが見えた。そしてなんと、中央にはルシファーが‥‥!!
「くっ‥‥」
 休んでは居られない。武将の中には飛び道具に長けた者も居る。エリシスは助走をつけると、翼を大きく羽ばたかせて飛び上がり──空へと昇る事が出来た。
「天へ逃げる気だ、追うぞ!」
 ルシファーの命令で、悪魔達も漆黒の翼を広げ、大地を蹴ってエリシスを追い続ける。
 エリシスは、必死に翼を羽ばたかせた。天へ‥‥天へ‥‥その一心で──。
 嵐の如く、また雨が降り出してきた。
 天界人は、全身から清らかなオーラを発している。雲は、天使が天へと昇りやすいよう、道を開け渡す。雨をもたらす低気圧は身を隠し、晴れをもたらす高気圧が張り出し、天使を暖かく出迎える。例え嵐の真っ只中であったとしても──雲は天使が濡れないよう、優しく道を太陽に譲るのだ。
 しかし‥‥今日の雲は、エリシスに道を開けてはくれなかった。
 情け容赦なく──冷たい槍のような雨を、エリシス目掛けて降らせていた。
 あっという間に翼が濡れ、体が氷のように冷える。体中から、力が抜けていくのを感じる。
 悪魔の毒気は、予想以上にエリシスを蝕んでいた。
(雲は‥‥私を天使と見なさぬか──!)
 絶望にも似た感情が押し寄せる‥‥。このままでは、天界の門をくぐれないかもしれない。
(これまでか‥‥)
 エリシスは、自分を追う悪魔達を見下ろした。彼らはまるで、鬼ごっこでも楽しむかのように、笑いながらエリシスを追いかけてくる。
 自分が逃げ続ける限り、悪魔は何処までも追ってくるだろう。果ては天界までも‥‥。
 それは絶対に阻止せねばならない。しかし今の自分の力では、雲を退け、太陽の光を悪魔に浴びさせる力はない。このままでは、彼らを天界の門まで案内させてしまうことになる。
 となれば‥‥自分がここで殺されるしか──。
 エリシスは覚悟を決めた。翼を羽ばたかせるのを止め‥‥堅く目を瞑った。
(もう逃げぬ。殺すなら殺せ‥‥!)
「覚悟────!」
武将が、エリシス目掛けて大剣を勢いよく振り下ろした。
 ザシュッ!!
 肉の斬れる嫌な音が、耳元で聞こえた。同時に、体中が熱を帯びる。しかし──不思議な事に、痛みは全く感じ無かった。
「ギャアアアァァ!!」
 自分ではない、何者かの悲鳴が上がった。
「え‥‥?」
 エリシスは、ゆっくりと目を開けた。我が目に映っていたものは──自分を斬りかかろうとしていた武将が、煉獄の炎に包まれ、カルタグラに送られている光景だった。
「ケガは無いですか?エリシス」
 いつの間にか、ミカエルラファエルが、私の両隣に──。太陽の光が、ミカエル‥‥ラファエル‥‥そしてエリシスにも燦然と降り注ぐ。
 斬られたと思ったあの瞬間、エリシスが体に感じた熱は‥‥暖かな太陽の光だったのだ。
「ミカエル‥‥ラファエル‥‥!」
(助けに来てくれた‥‥!!)
 ラファエルは、エリシスの顔の前に左手を翳した。微かな悪魔の臭いをエリシスの体から感じ、顔を顰めた。
「どうだ。悪魔の毒気を感じるか?」
 ミカエルは光の剣を構え、キッと悪魔達を見据えながらラファエルに聞いた。
「少し‥‥。強くは無いが──」
「何か問題でも?」
「このままでは、天界の門をくぐれんかもしれん」
「では、この場で清めてやってくれ。その間、俺が悪魔を引き付けていよう」
 そう言うと、ミカエルは自身のシンボル『光の剣』を高々と頭上に掲げ、悪魔達の軍勢に単身突き進んで行った。

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