『銀の天使』 5 ミカエルは、大空を泳ぐように滑空し、翼をはためかせて悪魔達の目を釘くぎ付けにした。その間に、ラファエルはエリシスの額の前で印を結び、その指を押し当て、清めの術を施した。 「どうですエリシス‥‥毒気は抜けましたか?」 「あぁ」 「そうですか。では貴方は、天界へとお戻り下さい」 ラファエルは炎の剣を構えながら、『ここは大丈夫ですから』と、微笑んだ。 (ラファエルも、ミカエルと共に悪魔と闘うつもりだ。私だけ‥‥おめおめと帰るのか!?) エリシスは、闘う二人を置いて、自分りだけ帰る気になれなかった。何故なら、この闘いは自分が招いたもの。私が悪魔に捕まらなければ‥‥こんな事態にはならなかったのだから。 『加勢します!』。この一言を自分が言えたら、どんなにいい事だろう。 『智天使』で、戦に長けず、さらに“民”であるエリシスには、剣の構え方も『習った』程度で、とても実践など無理である。 そんな“民”でありながらも、地位は上級である為、下級のミカエルとラファエルはエリシスを崇め、敬虔をしている。しかし時々、自分はそんな器ではないと思い知らされる。 悪魔の軍勢に立ち向かっていく彼らが、自分よりはるかに上級に見えてならないのだ。──当たり前だ。現在は下級天使である彼らは──元は栄光ある熾天使だったのだから────。 私は彼らに敬われる地位に居てはならない!──足手まといにしかならない自分が、彼らより地位の高い智天使だというのか!? しかし、ここで悔やんでいられない。自分が智天使の地位であるのにも、何か理由があるはずだ。彼らに出来なくて、自分に出来る事がきっとある筈だ。 (出来る事‥‥この私に出来る事は────) エリシスは、ふと自分の旗に目を移した。 銀の軍師の旗だ。しかし、ここ百余年は天界は平穏そのもので、この旗は軍師旗としては振ってはいない。今でも、この旗を振る資格は、私にあるだろうか────? 「ウッ!」 武将の剣が、ミカエルの肩を掠めた。どうやら武将の中には、天使との戦に手慣れた者もいるようだ。 迷っている場合ではない。エリシスは、銀の旗を振り下ろした。 旗の鈴の音に、ミカエルとラファエルは俊敏に反応した。 「二人に命ずる。即刻天へと帰還せよ!」 ミカエルの反応は早かった。光の剣を大きく振って悪魔の軍勢を圧制させると、すぐさま踵を返して、天へと昇っていった。 ラファエルも、剣から一際大きい炎を放ち、悪魔達を足止めさせると、エリシスの手を取って、ミカエルの後に続いて天へと昇っていった。 ついさっきまで、エリシスの盾となり、逃がそうとしていた二人だったが──立場は一気に逆転した。 エリシスは旗を片手に持ち、尚も執拗に追い続ける悪魔を見下ろし、今から起こるであろう事を説明し、それの対処法‥‥戦闘方法等を、細かくミカエルとラファエルに命じた。 「仰のままに」 命を受けた二人は強く頷き、胸に手を当て敬礼をした。 全ての天使にとって、軍師エリシスの旗の力は、今でも絶対的なものであった。何百年‥‥何千年経とうとも──。 エリシスは、ミカエルとラファエルに、次々に命を与えた。冷静に‥‥そして的確に。 そして、旗を大きく一振りし、“熾天使”達にシャマイム天への召集の命を告げた。 これが──軍師エリシスの真の姿──銀の旗を降れば、智天使の“民”でありながら、最上級の地位に立ち、熾天使さえも、彼に敬意を表するのだ。 地獄を這いつくばり、ラファエルの後ろで肩を震わせていたエリシスは、もうどこにも居なかった。 チラリとエリシスが下に目をやる。悪魔達は、尚も追ってくる。これ以上、昇らせてはならない。 「一気に天へと昇る。ラファエルは私を抱えて突っ込め。ミカエルは、その剣の力で、悪魔たちを蹴散らせ」 ラファエルは、エリシスを体をガシッと抱えると、一気に天へと昇っていった。 雲は、ラファエルの昇るスピードに間に合わず、晴れ間を与える事が出来なかったが、ラファエルは構わず突き進んでいった。 ミカエルはというと、逆に動きを止め、後ろを向き直り、真っ直ぐ追ってくる悪魔達を見下ろした。 胸の前──合掌する形で、光の剣を持ち直した。目を閉じ、静かに術を唱え始める。 「我が剣よ‥‥聖なる力を宿し賜え。神を崇め、敬虔なるものは、この剣の前に跪き‥‥」 ミカエルが何をしようとしているのか分からなかった悪魔達は、彼が神頼みをしているようにしか見えなかった。 「オイ見ろ!天使が神頼みをしているぞ!」 先頭を陣取っていた武将が、指を差してケタケタと笑い、背負っていた大剣を引き抜いた。 しかし‥‥ミカエルと闘った経験のある者は、彼の剣の構え方を見た瞬間、血相を変えて地獄へと真逆さまに退散していった。 ルシファーはというと────顔からは血の気が引き、額からは冷や汗を浮かべていた。 (まさか‥‥あの構えは‥‥!) ミカエルは、今にも攻撃せんとする武将を無視し、ただ静かに術を唱えていた。 白く淡い光が、煙のように剣を包み込んでいく。 ルシファーは、目を見開き、何かを思い出したように、慌ててその場に跪いた。 「ルシファー様?何を──」 一人の武将が、そう口を開いた瞬間──── 「神に背く者どもよ‥‥主の名のもとに滅びよ!」 剣から放射状の閃光が走り、太陽の如く、熱線が悪魔達へと降り注いだ。 視界は一寸先も見えない程の、強い黄金の光に覆われた。 「ギャアアアァァ!!!」 「熱い────!!」 「助けてくれ──────!!」 悪魔達の悲鳴が、そこら中に響き渡った。 蟻のようにいた悪魔の軍勢は、剣から発せられた光によって、五体は切り裂かれ──煉獄の火柱が、その身を飲み込んでいく。 煉獄の炎は、罪人を焼く懲罰の炎だ。実体の無い、罪のみを焼き尽くす炎。罪を知らぬ者は、熱さは勿論、苦しさも感じる事は無い。しかし、罪に汚れていれば──忽ち炎は実体を帯び、その身を飲み込む。永遠の苦しみを、煉獄の世界──カルタグラで味わうこととなるのだ。 「助けて‥‥下さ‥‥!」 間一髪、命拾いをしたルシファーと数人の武将達の腕に、炎に焼かれた悪魔達が、苦しみのあまり、助けを求めて縋り付いてくる。 腕を掴まれた武将達は、縋り付いてきた者が纏う煉獄の炎が燃え移り、共に炎の中へと消えていった。 「ヒィィ!」 信じられない光景にパニックに陥った武将たちは、帝王のルシファーを無視して、我が身可愛さに今来た道を引き返し、雲の中へと消えていった。 ルシファーも‥‥彼らと共に引き返そうとした。 しかし‥‥煉獄の炎に包まれたドゥマが、両手を広げ、地上への道を塞いだ。 「行かせない‥‥貴様もここで死ぬのだ‥‥ルシファー!」 「誰に向かって口を利いているのじゃ。そこを退け」 ルシファーは、『退け』と手で空を払い、ドゥマに命令した。だが、ドゥマは退かなかった。 ドゥマは、ルシファーを恨んでいた。 獄吏の自分は、魔界の地下深くで静かに暮らしていればよかった。それが、ルシファーに呼び出され、エリシスを追って天へと昇らされ────こんな目に! 「何故、貴様だけ無事なのだ!‥‥何故、我がこんな形で‥‥焼かれねばならんのだ!」 肩に掴みかかろうとしたドゥマを、ルシファーは、剣で冷酷に薙ぎ払った。 力なく崩れ落ちるドゥマを冷たく見下し、ルシファーは言った。 「滅びるのは、神に背きし者──。跪いて頭を垂れれば、煉獄の炎など簡単に回避できる‥‥」 つまり、形だけでも剣の前で跪けば──助かるのだ。しかし普通の悪魔は、プライドが非常に高い為、“己の死”を前にしても、神に対して決して跪いたりはしない。 しかしルシファーは──我が身が助かるのならば、どんなプライドも金繰り捨て──他者を物のように扱い、踏みつるのだ。 「愚かじゃの‥‥ドゥマ。跪くだけなら、そなたにも出来ただろうに────しかし」 天へと続く道を剣先で指し示し、 「哀れなそなたの敵は、我が討ってやろう。このルシファーがな‥‥」 ドゥマは、天へと駆け登って行くルシファーの背中を悲しく眺め──絶命し、塵なって消えていった。 |