『うたかたの光』 8

(遅かったか──)
 辺りが水を打ったように静まり返る。
 ミカエルの頭上から、新たに光が生まれる。光の剣とは違う──天使降臨の眩い光が四散する──。
 そこから現れた人物は───この世のものとは思えないほどの美貌の持ち主であった。
 ウェーブがかった長い黒髪。血の色をしたマントと甲冑。陶器のように澄んだ肌。宝石のような瞳。氷のような瞳で悪魔を見下しながら、その天使は静かに光臨した。
 ショールには『能天使』の紋章。そして────『長』を象徴する宝冠が頭上に掲げられていた。
 天使達を見慣れている悪魔たちも、誰もがこの天使の美しさに見とれ、争うのを止めた。
 太陽の光に反射して宝冠が七色に煌めき、純白の翼がダイアモンドのように輝きを放っている。
 その光景は、なんと美しいのであろうか──。
 まるで絵画から抜け出たような風貌に、見惚れていた隙だらけの武将たちは、ミカエルの剣の一太刀によって、いとも簡単に消滅した。
 しかし武将たちは、消滅しながらも、その瞳は身体が果てるまでその天使に向けられ続けた。
 更に、隣で悲鳴が上がろうが、同胞が殺されようが、悪魔達はそんなことなどどうでも良いように、食い入るように天使を見続けていた。
 そして、最も見とれ、感嘆の声を上げていたのは────上空で高みの見物をしていた女公爵である。
「なんと美しい天使かしら?」
「こんな綺麗な男、見た事がないわ」

「欲しいわ」
 誰かが、その一言を吐いた。
 その瞬間、公爵達はせきを切ったように一斉にその天使に群がった。
 その天使を、女公爵の誰もが欲しがった。
 この天使は私のものだ。この天使を捕らえて、私の配下にする。
 イザベル様の命令なんて知らない。こんな上玉の天使をイザベル様なんかに渡すものか‥‥‥‥私のものだ!!
 雪崩のように、公爵はその天使に群がっていった。
 その光景を離れていた所から観ていたリロイ、ルイス、リディア。
 女官長のリディアでさえ、駆け出したくてうずうずしていた。その天使の表情は見ることが出来なかったが、その者の立ち居振る舞いを見るだけで、その天使が『高級感』に満ちている事がわかるからだ。
 女公爵の一人が、群集をかきわけて天使の前に現れた。
 女悪魔は一瞬のうちに、その天使の刃によって倒された。
 骨まで断ち割るほどの剣圧──。能天使は、剣を振り下ろす時も‥‥顔色一つ変えることはなかった。
 女悪魔が、シュゥシュゥという音を立てて消滅していく。
 その姿を能天使は凝視すると静かに顔を上げ‥‥“次はお前の番だ”と言わんばかりに、残りの女悪魔に視線を流し、うっすらと笑みを浮かべた。
 頬に返り血を浴び、口端に伝う血を舌で拭う仕草は正に妖艶で、公爵らは恐れるどころか更に色めきたち、武器や手を翳し、頬を赤らめながら攻撃をしかけていく。
 能天使は大剣を構えると、軽く大地を蹴るや、地を跳ねながら、次々に、リズムよく悪魔を斬り殺していった。まるで、踊りながら、殺戮を楽しむかのように──。
 その剣技の優雅さに、悪魔の誰もが見とれた。見とれている間にも、悪魔は次々に滅ぼされていく。
「愚か者め──」「死ね──」
 まるで悪魔のような台詞を吐きながら、有無を言わさず悪魔をなぎ倒していく。
 倒された悪魔は、すぐさまミカエルが開いたカルタグラに葬られていく。
 最後の公爵がカルタグラに落ちた時‥‥‥‥能天使は、血だまりの中で、真っ赤に染まって佇んでいた。

 公爵も、武将も、全てが消滅し掻き消えた戦場は、悪寒が漂うほどの静寂だった。
 カマエルは、一度天を見上げると──その視線をゆっくりと、ルイスたちに向けた。
「ヒッ!」
 リディアはルイスを抱きよせ、震えながら瞑目した。
 この天使に斬りかかっても、勝ち目が万に一つさえ無いのは明らかだ。
 あとは、斬られる瞬間まで、ずっとずっと待ち続けるだけだ。
 コツコツと、能天使の足音が近づいてくる。
 足音は恐ろしいほどに静かなのに、ショールに付いた鈴の音は軽やかな音色を奏でている。その差異がとても不安を掻き立てる。

 鈴の音が止まった。
 カマエルが頭上に剣を振り上げた瞬間、リロイは二人を庇うようにルイスの前に立ちはだかった。
「天使殿。殺すならば、どうか私だけにしてはいただけないか?」
「‥‥‥‥」
「この子は確かに悪魔だ。しかし、狩り場に無理やり引きずり出された幼い身。どうか慈悲を持って見逃して頂きたい」
「リロイ様──!!止めてください」
 ルイスはリディアの腕から抜け出し、リロイの腕をつかんだ。
「天使様──!どうかリディア様とリロイ様を助けて下さい」
 天使に一切の敵意を向けず、目の前の天使に向かい、“天使様”と敬っている事に、能天使は小さく眉をひそめた。
 本来ならば、悪魔にとって太陽の光に匹敵する天使の前では目も開けられない筈だが、彼だけは目を見開き、天使の瞳を見据えていた。
「‥‥何故だ」と、カマエルは剣を頭上に翳しながら呟いた。
「助ける理由はない」
 天使の口から発せられたとは思えない、冷酷な一言だった。
 その一言には、ルイスは勿論、神父も呆然と立ち尽くすのみであった。
「お願いします天使様!どうか──」
 ルイスの言葉を最後まで待つことなく、カマエルはルイスめがけて剣を振り下ろした。

 剣が届く様を、凝視するごとく見開かれたルイスの眼の前に、金色に煌く十字架が能天使に向かって投げ込まれた。
 十字架は光を発し、盾のように天使の剣を防ぐと、剣の柄に絡め取られた。
 全ての者が、いっせいにその方向を見ると、そこにはあの神父が──。
 咄嗟に自分が何をしたのか。我に返った神父は、その場で崩れるようにへたりこんだ。
 自分を加護してくれる天使の目の前で、こともあろうに悪魔を助けたのだ。それはすなわち、天に対する反逆ともとれる行為であった。
「私は‥‥私は‥‥」
 ミカエルとカマエルは、悪魔を助けた神父を悲しそうに眺めている──。
 ルイスは、天使と神父を交互に見合う。深く項垂れる神父の姿に、胸が痛くなるのを感じずにはいられない。
「天使様──」
 ルイスがカマエルのショールに手を伸ばす──その前に、カマエルはその手を勢いよく振り払うとルイスを突き飛ばした。
「我に触るな!汚らわしい悪魔め──!!」
「ご、ごめんなさい!!ごめんなさい!!」
 ルイスは、地面に倒れこみながら、慌てて謝罪の言葉を繰り返した。
 天使の前で、少しでも抗う素振りを見せようものなら、一瞬にしてカルタグラに葬られてしまうかもしれない恐怖感に身が凍る。
 神父は、カマエルの悪魔のような出で立ちと、子犬のように蹲るルイスの姿を目の前にして、天使と悪魔と言う勧善懲悪に当てはまるものが、そこには存在しないような、妙な違和感を覚えてしまった。
 そして気づけば、神父はルイスに駆け寄って、優しく手を差し伸べていた。
 神父は、ルイスの顔に付着した血糊を丁寧に拭く。共に側にいたリロイは、ルイスの寄れた衣装を正した。
 驚くほどの近い距離に、リロイと神父の顔があって、互いに見合って、ぎこちなく微笑み合った。
 「神父殿‥‥。十字架での庇い立て、感謝します」
 天使に見られぬよう隠すように、リロイがそっと神父に十字架を返した。
 普通の悪魔であれば十字架に触れるだけで皮膚は火膨れするものだが、リロイは素手で十字架を手渡している──。
(‥‥平気なのか!?)
 さらには、
「神父殿。守護天使殿の前で、悪魔を庇う振る舞いをなさってよろしいのですか?」
 など、人間のような“気遣い”をしてくる。
 神父の頭上には疑問符のマークが踊り、目の前にいる相手が“悪魔”なのか“人間”なのか、よく分からなくなってきてしまった。
「ご心配なさらず。さぁ君、もう大丈夫だよ」
 ルイスに向かって、神父は、先ほどの教会から去る子を見送ったのと変わらない満面の笑みを、知らずにルイスに見せてくれた。ほかの人間の子と、なんら変わりなく‥‥。

 ミカエルは、その一連のやり取りを見ながら、ため息をついて頭を抱えた。
(なんと。これでは、こちらが悪者だな)
 戦意を喪失したミカエルの剣が、光を失っていく──。完全に光が薄れ、刀身だけになった剣を、静かに鞘に収めた。
「君‥‥名前は?」
 ミカエルが腰を下ろして、静かに優しく尋ねた。
「ル、ルイス‥‥です」
「今、君の気を探ったが、どうやら君は人間と悪魔の血を両方持っているのだね。そして、十字架を持っている貴方も‥‥人の血が混ざっている」
「‥‥」
「君らは、人の血を持っている証拠に、先ほど俺たちが倒した悪魔たちとは明らかに違っている」
「──違う?」
「君は、私の目を見て話が出来ている。天使の姿を凝視することが出来ているんだ」
 そうなのだ。悪魔は天使の姿をまぶしく感じるのである。
「どうする。斬るのか?カマエル」
 後は剣を振り下ろすだけの能天使に、ミカエルが尋ねた。
 カマエルが剣を一向に鞘に閉まわないからだ。
「斬らざるを得ない。こいつらは悪魔だ‥‥‥‥」
 カマエルが意を決し、剣を構えた時、どこからともなく、鈴の音が鳴った。
 シャーン!シャーン!風を斬って、鈴の音が徐々に強くなっていく。
(これは、エリシスの旗の音──)
 イザベルが遣わした使い虫が──ドロドロと床に崩れ落ちていくのが見えた。
「うわぁ!」とルイスがその光景に驚くと、カマエルが観念したように、鞘をしまいながら小さく呟いた。
「悪しき者であれば耳を塞がずにはおれぬ。更に力無き者は、音の振動で命を奪われることさえ有りうる。どうやら‥‥そなたらは平気のようだな」
 どことなく、カマエルは残念がっているように思えた。
「お前たちは、ほとほと悪運が強い。これが我の指揮での戦であれば、とっくにこの手で斬り捨ててやれるものを──。我に背を向けて、早々に魔界に逃げ帰るがよい」
 その言葉は、明らかに棘に満ちたものであった。この言葉に怒りでもして、飛び掛かれと言わんばかりだ。
 しかし、3人は、呆気にとられてへたり込んだまま、その言葉に怒ることさえできずにいた。カマエルは、どこかイライラした気持ちになり‥‥。
「お前たちの動向を監視していたヤツは消滅している。だから、このまま逃げ帰ることを咎められたりはせぬだろう。さぁ、早くこの場から立ち去るがよい!!」
 天使に刃向ってこない限り、悪魔といえど斬り捨てることは許されない。だからといって、このまま悪魔を人間界に残したまま、自分が先に天界に還ることもできないのである。
 こういうことが面倒だから、カマエルは団体行動を好まないし、大天使に応援を要請されても、あまり行きたがらない。
 自分が指揮し、自分の意思で決定できる能天使の職務に比べえると、なんと制約の多いことだろうか。
 指揮官がミカエルなら多少の文句も言えるだろうが、指揮官が“軍師”となれば、話は別だ。
 今の鈴の音は、エリシスの旗の音。この者たちを許せと言っている。
 天界において、軍師の命令は絶対的であり、例え天界最高位の熾天使であっても、その命令を覆すことは許されない。
「今の鈴の音は‥‥?私は魔界で、一度耳にしたことがあります」
 リロイがカマエルに尋ねると、カマエルは 「お前が知る必要はない──」
 カマエルは最後まで言わなかったが‥‥ミカエルの兄ルシファーが、エリシスを囚人としていたというのに、ルシファーを滅することなく、ご丁寧に魔界に逃がした事は、カマエルはいまでも酷く腹が立っていた。
 当事者のエリシスが良いという為に、それ以上踏み入れなかったが‥‥‥‥。二人の慈悲深さは、ある意味『おめでたい』し、心配の種である。
 カマエルは、『能天使』の長として、ルイスに向かって強く語りかけた。
「汝らに告ぐ」
 ルイス、リディア、リロイが、緊張した面持ちで耳を傾ける。
「この戦の目的、恐らくは我らの攻撃を防ぐやもしれぬ、幼い悪魔の力試しを兼ねた天使狩りであろう。確かにその悪魔の力は天界にとって脅威であった。次に我らに刃向うことがあれば、もはや一切の手加減もせぬと断言する」
 カマエルは、三人の悪魔の顔を覚えるように、一人一人を凝視し‥‥
「せいぜい気をつけろ」
 そう吐き捨てると、翼をはためかせてカマエルは早々に飛び立っていった。

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